日本は侵略国ではない
〜10問10答〜


 平成5年に日本中を揺るがした、細川元首相の首相の侵略国発言での、特集記事ですが、今、日本人はさらに勉強するべきではないでしょうか。

「日本は侵略国ではない国民委員会」編


  細川護煕首相は、去る八月十日の記者会見で先の大戦について「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と発言しました。また、同月二十三日に行われた国会の所信表明でも同様の主旨を演説しました。これは、首相の発言として極めて大きな問題です。
 さらに、関係各国に対して「謝罪」を表明する国会決議もとりざたされています。
 まことに由々しい事態です。 
 それは、歴史への無知と誤解に満ちたものであり、とても受け入れることはできません。私たちは、ここにその誤りを糾し、国会決議へ向けたすべての企てを撤回するよう強く求めます。


Q1 国会決議や政府声明のような形で、過去の戦争を裁くのは正しいことですか?
A1 世界にそういうことをした例はありません。

国学院大学日本文化研究所教授 大原 康男氏
 国会はあくまでも立法の府であり、歴史を判断する場ではない。歴史は公正な資料に基づく実証的な学問研究の成果によって判断されるべきであり、政治の場である国会の決議になじまない。いや、それ以上に特定の歴史観を国民に強制することになり、歴史教育を歪め、何よりも、かけがえのない尊い生命を国に捧げた英霊に対する重大な冒涜となる。(靖国関係三協議会編『細川「侵略琴言」に対する識者の見解』所載「細川首相の『戦争責任』発言を糾弾する」)

拓殖大学教授 秦  郁彦氏
 よく、西ドイツ(当時)のワイツゼッカー大統領の一九八五年の演説が謝罪の例として挙げられますが、それすら演説をちやんと読めば他国に謝っているわけではない。演説自体、高邁な一般論を格調高く述べたもので、国家ではなくユダヤ民族に抽象的に詫びている。(中略)結局、植民地支配そのものを謝罪した例は欧米にはありませんね。 (「週刊新潮」平成5年9月2日号)              

台湾・評論家 黄  文雄氏
 欧米の列強諸国は、数百年にわたり東南アジア地域を支配してきたにもかかわらず、独立後の旧植民地に対しては、謝罪も賠償もしていない。なぜ大東亜戦争で欧米勢力をアジアから追い出した日本の賠償と謝罪が、国際的常識になるか、西欧植民地から解放されたと思っている人々は、かえつて訝しく思っているのだ。日本人は一九九七年の「香港返還問題」をよく観察すべきだろう。 
 さらに不可解なのは、海部元首相のような東南アジア訪問中に見られる反省過剰の発言である。これは日本の先人たちの東亜解放の真意と犠牲を根底から否定することになろう。つまり、ひたすら「侵略史観」に同調するような行為となる点だ。 (『日本の驚栄はもう止まらない』光文社刊)


Q2 日本には今も、戦争に伴う賠償責任があるのですか?
A2 国交のない北朝鮮を除き、一国としてすべで解消済みです。

現代コリア研究所所長 佐藤 勝巳氏
 現在、わが国による植民地支配の後始末が未処理になっているのは北朝鮮一国のみであり、戦争処理についてはすべての条約や協定によって処理されていることは公知の事実である。「反省だ」「謝罪だ」「償いだ」といっている政治家や政党は、主観的意図はどうあれ、わが団が過去の戦争や植民地支配を後始末した条約や協定を事実上、否定していることにならないか。(中略)日本での「謝罪」は、それによって過去のこだわりは水に流されるのだが、日本を一歩外に出れば「謝罪」には必ず補償が伴う。それが国際的な常識である。(平成5年8月11日付「産経新開」)              

内閣官房長官 武村 正義氏
 (アジア諸国などに対する賠償問題について)国家間の請求権、賠償問題は二国間条約などで誠実に対応してきていることを了解いただきたい。(平成5年8月19日、閣僚懇談合発言)              

内閣結理大臣 細川 護煕氏
 戦後処理につ卜ては、サンフランシスコ講和条約など関連条約に従って誠実に処理してきている。この法律的立場の見直しを行うことは考えていない。(平成5年8月25日、第127特別国会答弁)


Q3 細川首相は、日本が侵略戦争をしたと言明しましたが、いったい侵略戦争とはどんな戦争ですか   ?
A3 「侵略」の定義についで一応の国際的合意ができたのは、今からわずか十九年前です。

上智大学教授 渡部 昇一氏
 そもそも「侵略」という意味自体、それ(注…東京裁判)までの国際法では定義されたことはありませんでした。最初に宣戦布告をしたほうが悪いということであるのなら、ドイツに宣戦布告をしたのはイギリスのほうが早かった。オランダも日本に対して先に宣戦している。先に攻撃したほうが悪いというのなら、日本とソ連との関係におけるソ連も裁かれなければなりません。(『自ら国を潰すのか』徳間書店刊) 

青山学院大学教授 佐藤 和男氏
 国際連合が曲りなりにも一般的な侵略の定義を作成し得たのは、一九七四年十二月十四日の「侵略の定義」に関する総合決議においてであった。(中略)この定義を過去の国家行為に遡及的に適用して議論することは、もちろん、法的には無意味である。 
 この決議によれば、侵略とは「国家による他国の主権、領域保全または政治的独立に対する、もしくは国際連合憲章の目的と両立しないその他の方法による、武力行使」とされ(第一条)、「国家による国際連合憲章に違反した軍隊の先制使用は、侵略行為の一応十分な証拠を構成する」ものとされ(第二条)、以下の行為が、いずれも宣戦布告の有無にかかわりなく、侵略行為とされる(第三条)。(中略)以上見た決議内容が正式の条約の形をとつて国際立法化(法典化)された時に、初めて、侵略の定義が法的に確立され、侵略は国際犯罪行為と認められることになるのであるが、現段階ではまだそこまでは至っていない。そのような国際慣習法も発達していない。 
 国際法的状況は現在でもこのようなものであるのだから、前大戦までのそれは想像にかたくないであろう。満州事変・支那事変・大東亜戦争を通じて行なった戦争は合法性の枠内のものであり得、政泊的に賢明な政策展開であったか否かは別として、「国際法上の犯罪行為としての侵略戦争」ではなかったのである。(『憲法九条・侵略戦争・求京裁判』原書扉刊)


Q4 日清・日露戦争(明治27〜28年・明治37〜38年)はどうして起こったのですか? 
Q4 いずれも日本の独立のために国の命運を賭けた戦争でした。

ワシントン大学教授 K・B・パイル
 十九世紀から二十世紀への転換期に、日本には欧米列強との平等を望む願望があり、東アジアの原材料と市場−日本の近隣諸国が欧米列強のいずれかの支配下に陥ったならば、日本はそこから締め出されることになる−への接近の維持という経済的動機もあったが、日本を除く東アジア諸国の政治的不安定は最も重要な要因と見られ、日本が最大の経済的利害関係を有する朝鮮と清国は、固陋で無能な政府が革命運動により土台を揺るがされており、もし両国が西欧列強の支配するところとなれば、日本の安全と経済的権益は危殆に瀕するものと考えられた。(『近代日本の形成』D・C.ヒース社刊)         

元衆議院議員・歴史家 和田 耕作氏
 当時の露国は強固である。海の英に対して陸の露といわれるほどの世界の二大国の一つであった。総合戦力からすれば日本など問題にならない。しかもなお日本が戦いを挑んだのは、いかなる理由によるのか。むろん傍若無人の露国に、隣国の韓国支配をゆだねることは日本の安全を危うくするとのせっばつまった決意からである。(中略)それに何よりも心強いのは日英同盟による武力以外の英国の全面的な支援があり、米国の物心の援助も期待できる、と日本政府は考えたのであろう。 
 それにしても日露戦争は日本にとつては国運を賭する戦争であった。(『歴史の中の帝国日本』力富書房刊)             

フィンランド大統領 バーシキピ
 私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛び込んできた。彼はすばらしいニュースを持ってきたのだ。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した。(〔SUOMEN KUVALEHTI〕一九八五年3月号「日本海海戦八十周年特集」)

インド・初代首相 ジャワ八ルラル・ネルー
 日本の戦捷は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。(中略)五月の末に近い頃、私たちはロンドンに着いた。途中、ドーヴァーからの汽車の中で対馬沖で日本の大勝利の記事を読み耽りながら、私はとても上機嫌であった。(『ネルー自伝』)                  

中国・国父 孫 文
 どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。(大正13年12月3日〜6日「大阪毎日新聞」連載「大アジア主義」)     


Q5 日本はどうして韓国を併合(明治43年)したのですか?
A5 東アジアの安定のためにはやむを得ない選択でした。

上智大学教授 渡辺昇一氏
 日清戦争の二年後の一八九七年には、国王高宗が皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改め、ここに初めて韓国皇帝が誕生したわけです。その韓国皇帝を戴いた大韓帝国がうまくゆけば、日本にとつて最も望ましいあり方であったわけです。大韓帝国が、しっかりとした皇帝国になり、朝鮮半島の独立が確固としたものになれば、日本にとっては、ロシア南下の心配もなくなるわけです。そうすれば、日本の天皇ともつきあっていただき、手を携えて東南アジアの安定と繁栄への道を邁進できたはずなのですが、そこにロシアが主導する三国干渉が一八九五年に行われ、日本はヘナヘナとならざるをえなかった。それを見た韓国は、事大主義の国であるわけですから、やっばり白人のほうが偉いということで、反日勢力が強くなった。それに、三国干渉を主導し成功させたロシアは、朝鮮半島での勢力を飛躍的に伸ばしていったのです。そうして、朝鮮半島がロシアの手に落ちれば、次は日本ですから、何としてでもロシアを朝鮮半島以北に食い止めなければならない。ということで明治三七年(一九〇四年)日露戦争が起こり、その戦後に植民地反対論者だった伊藤博文が安重根に暗殺されたため、韓国を併合せ ざるをえなくなったわけです。この経緯は当時の列強すべてに是認され、一国も反対しなかったのです。(前掲『自ら同国を潰すのか』)

独協大学教授 中村  粲氏
 韓民族にとって、それは慟天哭地すべき哀史であり、それを日本の"侵略"と受け止めるも蓋し自然な感情であらう。(中略) だが同時に、日本のためにも弁ずる所なければならぬ。我国は他国に先立つて韓国を独立国と認めたにも拘らず、この国は独立し得なかつた。その結果、我国は二度、国運を賭して戦つた。我国は三たび戦ふことを欲しなかつたが故に、空名にしか過ぎない独立を取消し、この国を併合したのである。優勝劣敗の苛酷な原則が支配する世界で、日本民族が生き残る途は他になかつたのだと筆者は考へる。併合は痛恨の悲劇だったが、これによって初めて東亜の政局が安定したことも掩ふべからざる事実なのであつた。(『大東亜戦争への道』展転社刊)


Q6 満州事変(昭和6年)はどうして起こつたのですか?  
A6 事変前の条約を無視した、理不冬な反日・排日運動のはげしさを見落としてはなりません。

慶応大学教授 中村 菊男氏
 満州事変は日露戦争以来、満州に存在した日本の特殊権益なるものが、中国のナショナリズムの興隆によっておびやかされたところにある。この処理の仕方が日華双方の国内事情がからんで合理的にいかなかった。そのことがいっそう問題がこじれる原因となった。したがって、それは日本の侵略意思によってのみ発展したとはいいきれないものがある。(中略)戦後、日本の一方的な「侵略行為」のみが糾弾されているが、その前に、中国人による反日運動がいかにはげしかったかを考慮に入れなければなるまい。(『天皇制ファシズム論』原書房聖刊)

作家 児島 襄 氏
 この日本の中国大陸にたいする行動を理解するには、そして満州事変をとりあげるならば、それ以前の日本と中国の関係を無視するわけにはいかないはずであります。日本が、ある日突然虎か狼のように満州に襲いかかったのではないわけでありまして、それ以前に日本が中国、特に満州に地歩を占めていたことが、起因になっています。日本が中国大陸に得たおもな権益は、一九〇〇年の「北清事変」に際して、英米その他十カ国と並んで調印した議定書にもとづくもので、北京、天津、山海関、秦皇島などの駐兵権もふくまれていました。
 続いて、日露戦争後の一九〇五年の清国との「満州善後条約」によって長春、旅順間の南満州鉄道、関東州の租借と南満州鉄道守備駐兵権を得ております。(中略) しかし、ここで特に申しあげておきたいのは、この日露戦争後の日本の動きのなかで、日本が満州に、たとえば領土的な野心を示そうとする場合に、非常な制約をうけていたということであります。(中略)ただし、日本としては、満州に得た権益の保護は考えざるを得ない。(中略)当時の日本には、なお満州に対しては経済的基盤を求めることはあっても、領土的な野心はなかったのであります。(細谷千博・安藤仁介・大沼保昭編『国際シンポジウム・東京裁判を問う』所載「平和への寄与」講談社刊)

陸軍大将 本庄  繁
 余が職を関東軍司令官に奉じたのは、昭和六年(一九三一年)八月であるが、予てより激化しっつあつた、中国の排日気勢は当時の幣原外務大臣(現総理大臣の熱誠なる協調政策にも拘らず、此の頃に至つて愈々悪化を加へて居た。特にそれは満州に於て甚だしくて、不祥事突発の日相次ぎ、しかも余の赴任直前には、正式査証を有する中村大尉及び井杉曹長の満州屯墾部隊による虐殺事件、満州国、官、民共同による朝鮮人農民虐待の万宝山事件等の重大事が続発して未解決の儘にある等、満州の一般情勢は真に憂慮に堪えないものがあつた。(中略) 斯くの如き不祥事件、不法事件は算するに遣なく、これがため、余が着任した当時に於ては、一瞬と雖も一触即発の危機ならざるはなかつた。 (『本庄日記』所載、絶筆「満州事変の本質」)


Q7 支那事変(昭和12年)は日本の計画的な侵略行為ですか?
Q7 そのとき、日本軍は鉄兜さえ携えていませんでした。

京都産業大学教接 丹羽 春喜氏
 中国全土(満州事変以前は満州をも含む)に広がった異常に過激な排日・抗日運動や、中国在住日本人に村する迫害・狼藉・膚殺事件の頻発、一九二七年の南京事件(わが領事舘が共産党系中国軍により襲撃・略奪された)、一九二八年の済南事件、三六年の西安事件(中国共産党が蒋介右に「国共合作」による抗日戦開始を強要)、そして、日中間の全面戦争につながった三七年七月七日の盧溝橋事件、さらに、同年夏に幾度も結ばれた停戦協定を、そのつど中国軍側からの暴発的攻撃再開によってぶち壊してしまうことになった広安門事件(三七年七月二十六日)や通州事件(同年七月二十九日−多数の在留民間日本人が虐殺された)など、そのすべてが、この線(注…日中両国を闘わせる)での中国共産党ないしその同調者グループによる謀略工作によって、発生させられたものである。私は、一九八八年六月の訪中のさい、北京の「中国人民革命軍事惇博物舘」で、中国共産党中央委員会による一九三七年四月十五日付けの「対日抗戦を実現せよ」という「全党同志」への指令書が陳列してあるのを見て一驚を喫した。すなわち、盧溝橋事件よりも三カ月も前に、中国共産党はこのような指令を出して いたのである。(中略)盧溝橋事件では、一九三七年七月七日の午後十時四十分に中国側から最初の銃撃を受けたあと、数回の銃撃を受けながらも、同地で演習中の日本軍部隊は、演習を中止したまま七時間後の午前五時半まで、応戦をさし控えて隠忍していた。そして、中国側の攻撃がいよいよ本格化して、日本軍がきわめて危険な状況になってきて、はじめて反撃を行なったにすぎないのである。(現代アジア研究会編『世紀末から見た大東亜戦争』所載「日本を陥れたもの」プレジデント社刊)

独協大学教授 中村  粲氏
 日本側に戦争計画など全くなかつたことはいくつかの事実が立証する。例へば清水中隊は空包の他に万一の場合に備へて各自実包三十発を携帯してゐたが、実包は厳重に包装され、間違っても使用できない状態になつてゐた。(中略)のみならず、同中隊はその夜(注…7月7日)の演習に鉄帽さへ携行してゐなかった。清水中隊長は二日後に予定された中隊教練検閲を控へて兵の過労を防ぐため、鉄帽も携行させてゐなかつたのである。我軍は鉄兜なきまま中国軍との紛争に巻き込まれて行ったのだ。(中略) この一事を以てしても、日本軍謀略説は崩壊する外ない。鉄帽不所持は我軍が交戦を予想してゐなかつたことを立証する決定的事実と云つてよい。(前掲『大東亜戦争への道』)


Q8 日本は先の大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)で東南アジアの国々を相手に戦争をしたのですか?
Q8 開戦および終戦の詔書に目を通してください。

昭和16年12月8日 開戦の詔書
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和二寄与スルハ丕顯ナル皇祖丕承ナル皇考ノ作述セル遠猶ニシテ朕力拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国力常二国交ノ要義卜為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国卜釁端ヲ開クニ至ル洵二已ムヲ得サルモノアリ豈朕力志ナラムヤ(中略)事既二此二至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ  

昭和20年8月15日 終戦の詔書
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図り万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩二米英二国二宣戦セル所以モ亦実二帝国ノ自存卜東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕力志ニアラス (中略)朕ハ帝国卜共二終始東亜ノ解放二協力セル諸盟邦二対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス

奈良県立商科大学学長 勝田吉太郎氏
 第二次大戦の戦勝国は、東京裁判において大東亜戦争を目して日本軍国主義の侵略戦争と断罪した。だがそれとは別に、あの戦争が白人帝国主義の終焉とアジア植民地の解放とを結果的にもらしたこと、それは否定できない歴史の事実であろう。日本軍がシンガポールを陥落させたとき、その報に接したロンドン亡命中のドゴール将軍は日記にこう書き記した。 
 「シンガポールの陥落は、白人帝国主義の長い長い歴史の終幕を意味する」と。なるほど八月十五日は日本にとつては屈辱の日であろう。しかしその日は、インドその他のアジア諸国にとつては解放と独立へ到る日となったのである。(前掲『世紀末から見た大東亜戦争』所載「大東亜戦争とコミンテルン」)

評論家 田中 正明氏
 大東亜戦争をアジア民族の解放戦争としてうけとめ、その聖なる使命感に奮いたち、戦い殉じた多くの人びとのいたことを我々は忘れてはならない。インドネシアの独立に寄与した功績により、同国最高の「ナラリヤ勲章」をうけた前田精、清水齊、稲嶺一郎、金子智一、高杉晋一ら、あるいは四年間にわたる苛烈なインドネシアの独立戦争を共に戦った二千名にちかい日本軍将兵、生き残ってかの地に永住している乙戸昇、古閑正義氏ら百余名の方々、あるいは、ビルマ独立に勲功あった同国最高の栄誉賞である「オン・サン旗章」をうけた南機関長鈴木敬司少将未亡人節夫人はじめ杉井満、川島威伸、泉谷達郎、高橋八郎、赤井八郎、水谷伊邦雄氏ら、あるいは、インド独立軍を編成したF機関長藤原岩市少佐(当時)とその機関員の人びと、さらには、三万八千人のペタ(祖国防衛義勇軍)を編成し、訓練した柳川宗成、土屋競、六川正美の各中尉、これを授けた原田熊吉中将ら、その他の人びと……。これらの人たちは、民族をこえ、国境をこえて、独立・解放という民族の聖業に結ばれ、殉ぜられた″アジアの戦士゛である。スカルノ大統領は戦後インドネシア独立運動に殉じた市来龍夫、吉住留五 郎両氏の顕彰碑を東京芝の青松寺に建立して「独立は一民族のものならず」と道破し、これを刻字した。 (『アジア独立への道』展転社刊)


Q9 戦争責任をめぐつて日本とドイツがよく比較されますが、両国の事情は同じだったのですか?
A9 憲法と議会を停止し計画的に侵略戦争を企てたナチス・ドイツと、日本とは同列に論じられません。

国学院大学日本文化研究所教授 大原 康男 氏
 憲法は停止され、ナチス党の一党裁政権の下で、綿密な計画を立てて、ヨーロッパの侵略を共同謀議し、かつユダヤ人などを大量虐殺したドイツの戦争と、憲法も議会も一通り機能しており、政府と軍部、陸軍と海軍、中央と現地軍といった複雑な対立構造をかかえながら、幾多の試行錯誤を重ねながら戦争に突入し、ジエノサイド(虐殺)のような発想は全然なく、不祥事件も局部的・偶発的に起こつたに過ぎない日本の戦争とを同列に論ずるのは甚だ公正さを欠く。(「細川首相の『戦争責任』発言に村する批判」) 

東京大学教授 小堀桂一郎氏
 ドイツ政府は事実上崩壊・消滅してをり、西部戦線、東部戦線(実態は首都ベルリンの市街戦)共に、ドイツ軍が力尽きて抵抗を中止し、全軍の無条件降伏が即ちドイツ国と連合国との間の戦争の終結といふことになつた。(中略)それに何よりも重要なことは、ニュルンベルクで裁かれた被告達は、連合国の設定した「事後法」 によらなくとも、ドイツの国内法にてらしてみても、明らかに犯罪者集団であり、刑法に基いての殺人犯人共であり、戦勝国側が彼等を訴追しなかつたとしたら、ドイツ国民自身の内部から、今や無力と化したこのナチの犯罪者集団に対する司法的糾弾の叫びが挙つたであらう、といふことである。日本の敗戦の様態はこれと大いに違つてゐる。終戦時、日本国政府は健在であり、主権国家としての外交権を立派に保持してゐた。(中略)我々は東京裁判の法的根拠とされた「条例」 に村し、それは事後法の禁止といふ文明社会一般の法律原則に(従って謂はば一般的正義の原則と道徳とに)違反するのみならず、同時にそれはポツダム宣言と、その条件を再確認したものである「降伏文書」(昭和二十年九月二日、ミズーリ号艦上で調印) にも違反するものだ、と異議申立 てをすべき権利を有してゐた。(『日本及日本人』平成5年盛夏号所載「戦争犯罪戦判と歴史の實相」)


Q10 日本を侵略国とした「東京裁判」とはなんですか?
A10 戦勝国による、裁判の形を借りた占領政策のひとつにすぎません。

上智大学教授 渡部 昇一氏
 東京裁判は「国際裁判」だと言われているが、そうであろうか。なるほど、正式の名称は「極東国際軍事裁判」であり多くの国籍の人々が関係しているが、それは国際法に基づいて行なわれたものではない。これは、占領軍の最高司令官であるアメリカ陸軍元帥ダグラス・マッカーサーの昭和二十一年(一九四六)一月十九日付による特別宣言書に基づいて設定されたものである。その裁判の具体的な構成や規定の一切は 「極東国際軍事裁判所条例」 によって決められており、これに基づいて行なわれた。(中略)東京裁判の法的根拠は、すでに確立していた国際法によるものではなく、駐日アメリカ陸軍が作成した条例であることは、いくら繰り返しても繰り返しすぎることはないであろう。 
 つまり、東京裁判は、裁判という形式を取った占領行政措置なのである。 (『日本史から見た目本人・昭和編』祥伝社刊)     

ドイツ・ルール大学学長 
 クヌート・イフセン平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力をもっていた国際法にもとづくものではなかった。また、当時すでに戦争に訴えることは禁止されていましたが、これについては、個人責任は確立されていなかった。戦争禁止の違反については刑法上の制裁も存在しなかった。その限りにおいて、条例は事後法であり、東京国際軍事裁判所自身によって「一般的な正義の原則」と明確に認められた「法律なければ犯罪なし」の格言に違反するものでありました。 (前掲『国際シンポジウム・東京裁判を問う』所載「東京裁判の主要な法的側面と国際法の発展に与えた影響」)                 

作家 深田 祐介氏
 大東亜戦争開戦五十年を経た今日、極東国際軍事裁判による歴史観を見直すべき時機が到来しているのを痛感せざるを得ない。この裁判においては、「民主主義対ファシズム」という対立図式を硬直的、教条主義的に適用し、戦時における日本の行動をすべてファシズムによる悪と断罪した。この裁判には、「戦争は国益の衝突である」というクラウゼヴィッツ以来の戦争についての基本的認識さえ欠如していた。(中略) 戦後バー・モウ(注…初代ビルマ首相)は、「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」 (『ビルマの夜明け』)と述べる。 この誤解している諸国民のなかに「日本国民」自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある、といえそうである。(『黎明の世紀!大東亜会議とその主役たち』文嚢春秋刊)

民族戦線59号