楠公論私説
葦津 珍彦
湊川神社の楠正成公の名をあげれば、だれもが忠誠無双の精神を想起します。日本人が、忠誠といふことを考へれば、必ず菊水の楠公を連想します。楠正成公は、日本人にとって、忠誠の典型として印象ふかいものがあります。日本人は、もともと忠誠心の強い民族であって、楠公以前にも以後にも、無数の忠烈な先人の歴史を有ってをります。だが、少なくともこの数百年いらい、日本人は、湊川の楠正成公をもって、日本人の忠誠心の最高の典型として信じて来たといってもいいでありませう。楠公の忠誠無双な志を書いたものとしては、古くから「太平記」の名著があり、その後の学者の史論もあります。しかしそれが広く全国民的に強く信ぜられるやうになったのは水戸義公、光圀が湊川の墓所に碑を建てて自ら筆をとって「鳴呼忠臣楠子之墓」の八文字を刻し、その碑の裏に有名な宋舜水の名文を刻せしめた元禄のころからのことであらうと思ひます。
水戸義公の湊川建碑と大日本史の編纂が、楠公の忠烈を天下に顕彰するのに大きな力のあったことは、申すまでもありませんが、私は楠公の忠烈を国民心理の中に広汎、痛切に印象づけたものとして、頼山陽先生の日本外史巻五の占める地位は、非常に大きいと思ってゐます。この外史が、日本の精神史に及ぼした影響は、実に重大だと思ひます。
日本外史は、かの明治維新前夜の時代のベスト・セラーの書であって、いやしくも日本の読書人は、たれでもが必ず読んだといっていいほどのものでした。しかも感銘ふかい名文章で、とくに楠氏のことを書いた巻五は、もっとも感激的な文章として熟読されたものであります。この文章が、明治維新を推進した人人の精神をはげますのに、強烈な作用を及ぼしたことは、いやしくも維新の精神史について知る人は、たれでも認めてゐるところであります。維新の志士たちは、この外史の楠公の忠誠心に、その心をはげまされたといっても過言ではありますまい。
それ故に、明治維新が成就すると、自然の勢ひとして、湊川に楠公を奉祀する神社が創建されることになりました。しかして、維新以後では、ある意味では、いよいよ楠公精神が高揚され、それこそ数千、数万の楠公に関する論文や文学、絵画等が現はれてゐます。そしてそれが、明治以後の日本国民の忠誠心に及ぼした影響といふものは、測りしれないほどに大きい。私どもは、幼年時代から絵本で楠公の物語りを読み、桜井の駅の悲歌を、涙ながらに歌って育って来ました。けれども、それらの物語りや歌なども、その多くは山陽外史の巻五から出てをるやうに思ひます。私は、明治維新の思想史を見る上においても、明治以後の日本人の忠誠心を考へる場合にも、日本外史巻五に伝へられた楠公についての文章は、決定的に重大な地位を占めるものだと信ずるのであります。
専門的な歴史家の中では「太平記」や「日本外史」は、実証史的には信頼性の乏しいもので、大衆文学か講談のやうなものだ、といふ批評もあります。私は、そのやうな歴史学者の専門知識はありませんが、私も日本外史の文章を、そっくりそのまま実評的な意味での史実だと信じてをるわけではありません。むづかしい史的考証を待たないでも、常識的にでも疑へば、いくらでも疑はしい点もないではありませぬ。おそらく修正を要する点も、少なくないでせう。それを専門史家が研究されるのは結構ですが、ここではそのやうな意味での専門家の歴史研究を問題としてゐるのでありません。私は後世の日本人のイメージの中に生きて来た楠公、後世の日本人の志を、生きてはげました楠公について語りたいのであります。そのやうな精神史的な側面から考へますと、いかなる実証史家の楠公史よりも、山陽先生の外史が、大きな存在の意味を有ってをります。
それで私は、ここに楠公を論じますのにも、主として日本外史を顧みながら、進めて行きたいと存じます。もっとも議論といふものは、人おのおのによって多少づつ異ります。例へば同じ不二の山を見て、たれでもがひとしく美しいと感ずる。だが不二の山の姿は、たれが見ても同じで、たれも美しいと感ずるのだが、どのやうな点を、どのやうに美しいと感ずるのか、美学的に論じてみるといふことになると、それぞれに論は異って来るでありませう。楠正成公をはじめ、その志をついだ正行公以下三朝五十余年の忠烈の歴史に対しては、ひとしく感激してゐても、それを議論で解明することになると多少異って来るかと思ひます。予め御諒承をえたいのであります。
二
楠正成公の所伝を、外史などによって読みますと、私には前段と後段とでは、かなりに異った色彩の感じがいたします。端的に申しますと前段は、上げ潮に垂って進む形とでもいひませうか、希望に満ちた明るさがある。華々しい建武中興の功業を期しての英雄談であります。
正成公が、笠置山の行在所に参りましたのは元弘元年八月、正成は一地方の武将にすぎませぬが、後醍醐天皇から深い御信任のお言葉を承り、身にあまる光栄に感激して、必ず関東の賊を討つべきことをお誓ひ申上げました。正成の奉答の辞は「時に乗ずれば、天誅の必成は疑ひありませぬ。武蔵相模の関東武士は、その勇に於ては天下無双とは云へ、臣にはこれを打ち破る智謀の自信がございます。戦ひの勝敗、一時一局の挫折はありませうとも、陛下、いやしくも正成一人、未だ死せずと聞こしめさば、必ず御心をわづらはし給ふことなく、必勝の日の到来を信じていただきたいと存じます」と。ここには御帝の御信頼に感激して、「千万人と雖も吾往かむ」、との決意に燃えた武将の心情が、鮮かに表はれてゐます。またここには大義に則り、時勢の流れを明察して、少数精鋭をもって、天下の大勢を決し得る、のとの満々たる正成公の自信が感ぜられます。
正成公は、笠置を拝辞してのち、赤坂城に拠って、義旗をかかげます。次いで金剛山に転戦し、怒涛のごとくに押しよせて来る関東勢に村して智謀百出、勇戦敢闘します。笠置の御帝は、賊軍のために隠岐の孤島へ流され給ひ、一時は非常な挫折、悲境の状況を呈しますが、正成公は、次から次へと転戦して屈せず、この公の英雄的抗戦の雄姿は、諸方の忠勇の士を蹶起せしめるに大いに力がありました。やがて隠岐の御帝も脱出し結ひ、新田足利等の大勢力が動き出して、鎌倉の幕府を打ち亡ぼしました。後醍醐天皇が京都へお還りになるといふので、正成公は七千騎の兵をひきゐて兵庫にお迎へします。天皇は正成公に対して「今日の事、皆汝の忠戦の致す所」とのおほめの言葉を賜り、詔(みことのり)して正成に先駆命じて、京都へ晴れの還御になりました。おそらく、正成公伝の中で、この時ほどに、晴れやかな姿は、ありません。笠置の誓ひ空しからず、正成公は、建武中興史上の英雄的功業を樹てることができたのであります。正成公は摂津河内の守護となり、検非違使(けぴゐし)、左衛門尉(さえもんのぢょう)に任ぜられ、名和長年と共に司法の要位に就くこととなりました。この時までの正成公の動きは、時の上げ潮にのった感があり、その形に於ては、ただ、独り孤城を守って天下の大敵に抗してゐても、必勝の明るい未来が感ぜられたのですが、この時代から後には、やうやく時の潮流が逆転して、沈痛な暗い影がさして来るのが感ぜられます。
三
建武中興が成り、鎌倉の北条政権が亡びて、京都での新政が始まりました。この政治に対して日本外史などは、はなはだ手きびしい批判を加へてゐます。健全な政治理想が見失はれ、人事行政等についても当を失し、文武官が遊惰に流れたと申すのであります。歴史家の中には、この外史の評に対して反対の論もあります。外史は、徹底的な楠公崇拝ですから、中興の政治批評についても、楠公や藤原藤房のやうな忠誠の賢良を十分有力な地位につけなかったと云って非難します。御帝も苦難時代の政治理想から遠ざかって行かれたやうに直筆します。しかし史家の中には、中興の政治には、高貴な理想が生きてゐたのだと弁護し、楠公の中興後の地位も、当時の社会的身分条件等から見れば、非常な御優遇であって、外史の評は、当時の歴史事情を詳知しないもので、全く当らないと申す人もあります。それも確かに一理ある史論かとも存じますが、私は、ここでも、
ある意味では外史を重く見ます。
明治椎新前夜の人々は、外史に深く影響されてゐて、建武中興の失敗を繰り返してはならないと固く決意しました。かれらは、建武中興の忠烈な武将の歴史に、その志をはげまされながらも、その政治建設に於ては、決して建武時代を理想とすべきでないと決意しました。そのために明治維新の王政復古では、異常の英断をもって、前古未曾有の新鮮、雄大な理想をかかげることとなり、政治的人事についても、全く驚嘆すべき大胆な人材登用が行はれました。ある時代の政治が良かったか否か、それを批判するのには、その時代の歴史条件を詳知することも大切ですが、このやうな変革時代の批判には、史家自身が、いかなる理想を基準として考へるかといふことで、非常に変って来るやうに思ひます。山陽先生には、ある意味で、維新への予感があり理想があった、その理想が高く、遠大なので、自然の勢ひとして、敗れ去った建武中興の政治に対しての不満も、批評も、手きびしくなったのだらうと私は考へます。良といひ否といふも結局、評者の基準のおき方によって、異るところが大きいと申さねばなりません。
もっとも歴史といふものは、白紙に画をえがくやうに、自由任意にえがけるものではない。既往の条件に強く制約されざるをえません。建武の時代に、あれ以上の事は望めなかった、との史論にも一理あるでせう。だがともかくも、あの程度の政治では、日本国を安定させることは、できなかった。京都の王政は、古い北条の武門政治を倒すことはできたが、新しく抬頭して来た足利の武門政治に対抗するだけの実質的な政治力がなかったのは、事実として認めるざるをえないでありませう。当時の実力的階級たる武士は、北条の政治には見限りをつけたが、新興の足利の政治には、希望と期待をよせたと見るべきでせう。そこで御帝に対して終始、忠誠をもって一貫した正成公の敵は、前段では「落日斜陽の北条」だったが、後段では「旭日昇天の足利」となるわけであります。ここにいたって、楠公伝の後段は、沈痛にして暗黒なる悲史とならざるをえないのであります。忠烈な楠氏一門は、新田、北畠その他の忠勇の将士とともに、勇戦奮闘をつづけますが、天下の大勢は、日に月に暗く、悲劇の色彩を深めて行きます。だがその後段の悲劇的色彩が深まって行くとともに、楠公伝の印象は、いよいよ痛切に、忠誠の至情を人人の心理に、深くきざみつけて行くことになるのであります。
四
建武の新政に反抗した足利高氏は、一時は九州へ敗走しましたが、かれには多くの武将を結集するだけの政治実力がありました。西国の武士五十余万の大軍をひきゐて、都へ大進軍を敢行して来ました。正成は、智謀の将でありますし、策を案じ、敵の大軍を一旦都へ引き入れ、これを背後より奇襲する作戦計画を進言しましたが、この案は御帝のお許しをえられませんでした。戦ひについては無知な藤原清忠などの議が通って、延元年五月、正成は兵庫に向って進発すべきことを命ぜられます。智謀の将の献策はいられず、敗戦必死を予期しての出陣をせねばならぬことになります。正成は、三年前には、兵庫から京都への道を、御帝の御信任をえて光栄の先駆をつとめたのでしたが、今やその道を、京都から兵庫へと敗戦必死を予期して進まねばならなくなりました。無限の憂念禁じがたく、都を発した正成は、その途中の桜井駅で、その子正行と訣別します。世にいふ桜井の駅の父子訣別です。外史の名文を、ここにそのまま引用します。
正行、時に年十一なり。正成、これを河内に遣帰(けんき)し、これを誡(いまし)めて日く、汝幼しと雖も既に十歳をすぐ。猶(なほ)能(よ)く吾言(わがげん)を記(き)せん。今日の役(えき)は、天下安危の決する所、意(おも)ふに吾復(われまた)汝を見ざらん。汝、吾巳(すで)に戦死すと聞かば、則ち天下尽く足利氏に帰せんこと知るべきなり。慎みて禍福(くわふく)を計較(けいかう)し、利にむかひ義を忘れて、乃父(だいふ)の忠を廃(はい)する勿れ。
まことに千古の名文であります。これは、太平記の巻十六「正成、兵庫に下向の事」文章を、山陽の漢文で書いたものですが、この山陽の名文によって志をはげまされた日本人がいかに多いか測りしれないのであります。その時に正行が十一歳だったか否か、桜井の駅の場所がどうかといふやうな史論もありますが、精神史の上から見れば、そんな問題は、片々たることにすぎませぬ。
桜井の駅で正行と別れて、正成は正季とともに、わづか七百の精鋭をひきつれて、兵庫にいたり、新田義貞の軍と合流します。そして、数十倍の敵大軍を遊撃し、義貞に対しては都へ退却することを切に勧告し、自らは、壮烈無双の最後をとげたのであります。この一段を太平記は、次のやうに語ります。
三時(みとき)が間に十六度まで闘(たたか)ひけるに、其勢(そのせい)次第次第に 滅(ほろび)て、後は僅に七十三騎にぞなりにける。此勢(このせい)にても打破て落(おち)ば落(お)つべかりけるを、楠京を出(いで)しより世の中の事、今は是(これ)までと思ふ所存(しょぞん)ありければ、一足(ひとあし)も引(ひ)かず戦(たたかつ)て、機すでに疲れければ、湊川の北にあたって、在家(ざいけ)の一村ありける中へ走人(はしりいつ)て、腹を切(きら)んために鎧(よろひ)を脱(ぬい)でわが身を見るに、斬創(きりきず)十一箇所(かしよ)までぞ負(おひ)たりける。此外七十二人の者共も、みな五簡所三箇所の創(きず)を被(かうむ)らぬ者は無(な)かりけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に竝(な)みゐて、念仏十返ばかり同音に唱(となへ)て、一度に腹をぞ切りたりける。正成座上に居(ゐ)つつ、舎弟(しゃてい)の正季(まさすゑ)に向て、そもそも最後の一念に依(よつ)て、善悪の生(しやう)を引(ひく)といへり。九界の間に何か御辺の願なると問ければ、正季からからと打笑(うちわらつ)て、七生まで唯同(ただおなじ)人間に生れて、朝敵(てうてき)を滅(ほろば)さばやとこそ存候へと申ければ、正成よに嬉(うれ)しげなる気色(きしよく)にて、罪業(ざいごう)深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生(しやう)を替(かへ)て、この本懐(ほんかい)を達(たつ)せんと契(ちぎつ)て、兄弟共に刺違(さしちがえ)て、同枕(おなじまくら)に伏(ふし)にけり(太平記巻十六、正成兄弟討死事)
この太平記、外史に語られた桜井の駅から湊川にいたる間の話は、まことに悲壮で、後世の日本の青少年は、涙ながらにその話を聞き、その歌を唱ひ、その清らかさ、その雄々しさにあこがれました。私なども少年時代から、外史や太平記を幾度となく読み、その度に楠公父子を追慕したものの一人であります。ところが少年時代の感想と、唯今とでは、多少趣のちがって来た感想も出て来ました。
私は、少年時代には、この桜井の駅から湊川へいたる伝を読み、楠公父子の忠誠を追慕するの情が強ければ強いほど、どうして大楠公が、断固としてその賢明な作戦計画を固執しなかったかと思ひ、残念でなりませんでした。楠公崇拝の外史では、楠公の献策がいれられてをれば、必ず勝ったはずだと思はせるやうに書いてあります。それほど確実な勝利への道を棄てて、なぜ死なねばならなかったのか、それが残念でなりませんでした。
しかし私は、年を経て、はじめてそのあたりの消息が分って来たやうに思ひます。楠公の作戦案は、たしかに優れてをり、そこに朝議決定との間に、優劣の差がありませう。しかしそれは優劣の相対的な差であって、かくすれば必ず勝つ、かくすれば必ず敗れるといふ絶対的なものではない。正成公自らが云ふやうに、戦ひには勝敗も挫折もさけがたい。勝敗は作戦の優劣も大事ですが、時の勢ひ、時の運が支配します。だが大局的な判断は正成ほどの人には分ってゐた。「いやしくも正成未だ死せずと聞かば」と言上した笠置山での言葉と、「吾既に戦死すと聞かば、則ち天下尽く足利氏に帰せんこと知るべきなり」との桜井の駅の言葉とを相対比すべきでせう。いづれに於ても正成公は、天下の重鏡たるをもって自任してゐるけれども、前段では、必勝の明るい未来を信じてをるが、後段では敗亡のやむなきを予感してゐる。献策がいれられれば、一時一局の勝利はえられるかもしれぬ、だが天下の大勢は、すでに動かしがたいものとなってゐる。正成公としては、その事を明察し達観したのでありませう。太平記では、その間の消息を「楠京を出でしより、世の中の事、今は是までと思ふ所存ありければ」と書いてゐます。この場に臨んでは、戦ひの勝敗、功業の成否は、第一義の問題ではない。最後の一瞬にいたるまで、いかに忠誠への道に全力を投入して、武士らしく戦ふかといふことが問題なのである。忠誠の道を外れて、不義の繁栄の許されないことは云ふまでもない。戦ひ敗れ、功業成らずとも忠誠の道を死守し得れば、それでいい。「死ありて他なかれ」との一語は、そのことをもっとも端的に明示したものであります。
桜井の駅から湊川への道を進む楠公には、すでに勝敗や功業の成否は問題ではありませぬ。ただいかにして純粋な忠誠の精神に殉ずるかといふことのみが、唯一の強い関心事なのであります。祈るところは、その純なる精神が、その一族一門に強く生き残ることのみでありました。
五
戦ひの勝敗をも功業の成否をも無視してひたすらに忠誠を守り、「ただ死ありて他なかれ」との信条に徹して、湊川に散って行った正成公の忠誠の純粋さに、日本人は感動しました。しかしこの精神が正行公に継承され、三朝五十余年、ただ忠に殉ずることを知って、出世と繁栄とを顧みないで、一門一党ことごとく斃れて行った楠氏の悲史に対して、日本人は感激し、ここにこそ忠誠の典型があると感じました。
しかしこの心情は、近代流の合理主義者、功利主義者には理解しがたいところがあります。かれらは、世のためか、おのれのためにか、有益な役に立つことにしか人生の 「価値」をみとめようとはしませぬ。このやうな思想からすれば、湊川の楠公の殉忠といふことは、理解しがたい。勝つ見こみのない戦ひに全力を投入して、自ら死ぬのはどうも合理的ではない。それは「何のために役立つのか」といふ疑問を生みます。この疑問を提示したのが、有名な明治の啓蒙的合理主義者、福沢諭吉でありました。
福沢諭吉の「学問のすすめ」は、明治初年のベストセラーで、日本の朝野に大きな影響を与へたもので、今では古典的な著とされてゐます。だが、その中で湊川の楠公の死を、暗に蔑視するかのやうな一節があります。楠公崇拝熱のさかんな時代のこととて、福沢は猛烈な非難を浴びせられました。
ここで福沢の詳しい思想の解説や批判のいとまは、ありませぬが、根本において福沢の思想の基調は、合理的実利主義、能率主義です。実利と能率とで、人生万般の問題を割り切る立場からは、湊川の死戦が無意味に感ぜられるわけです。
しかし私が、ここで問題にしたいのは、近代に於けるこの合理主義、功利主義の根の深さであります。明治の多くの論客は、福沢に村して怒り、多くの反対論を書いたのですが、その反対論者の側の云ひ分を見ても、多分に「功利的合理主義」の論理の上に立ってゐます。楠公は湊川で大いに「役に立つ」有益な功業を樹てたのだと云ふ論が多い。この楠公あるによって、日本の忠誠の精神が後世に高揚された、これは大変な功業であるといふやうなことを論じてゐます。これは理論的には、やはり福沢と相通ずる合理的な功業主義の立場であって、楠公の忠誠を論ずるのには、はなはだ不徹底なもののやうに思はれます。
私は、そのやうな功利功業の理論では、楠公精神の真を解明することは、できないやうに思ひます。楠公は、自分が死ねば「天下ことごとく足利に帰せむ」と予想した。そして正行に対しては、味方の一人でも生きてをれば、金剛山で討死せよと命じた。かれは一門一党ことごとく自ら亡び去って行くのだ、と深く決意したのである。外史の語によれば「死ありて他なかれ」と切言してゐるところに、楠公精神の核があります。子孫残党にいたるまでの玉砕全滅です。このやうな一門一党子孫までの全滅を命じたかれは、おそらく自らの忠誠が後世に記録されるだらう、などとは思はなかったでせう。たまたま「太平記」がこれを書き、日本外史の名文が出て、後世の結果から見ますと、大変な思想的影響をのこし、心理的作用が後世に現われますが、それは測らざりし「結果」なのであって、決して楠公自らが予期したことではありませんでした。吉野朝の忠臣であり、その思想的理論的代表者であった北畠親房の「神皇正統記」などでは、後醍醐天皇の下で、忠戦した諸将の事歴を記した中で、
河内の国に楠木の正成云ふ者であり。御志深かりければ、河内と大和との境に、金剛山と云ふ所に城をかまへて、近国ををかし、平げしかば、東(あづま)より諸国の軍を集めて責めしかども、堅く守りければ、たやすく落(おと)すに能(あた)はず、(神皇正統記巻四)
と書いて、北条討伐のさいの正成公の功績を明記してゐます。けれども足利に対する楠正成公の戦績については、ほとんど記するところがない。湊川の戦ひについては、新田義貞等官軍の退却を記録したのみで、正成公が戦死したといふ事実の記録すらも書いてをりませぬ。後世に現はれた「太平記」や「外史」の名文学に親しんだ者から見ますと、いかにも物足りぬといふか、冷淡なやうな感じすら致しませうが、強大な武将が、次々に大きな戦ひをしてゐた当時の戦局から見て、これは無理ないことと思はれるのであります。正統記の著は、楠公死後二三年後の間もないころ書かれたものですが、おそらくこの程度の記録が残るのが当時の「常識」だと思はれます。後世たまたまに現はれた「「太平記」や「日本外史」の名文を予想して、楠公の湊川の死戦が決行されたものではありませぬ。
楠公の精神は、忠誠のためには、「ただ死ありて他なかれ」の語の通りで、必ずしも戦ひ勝って、功業を樹てるとか後世人を感動させることにあったのではありませぬ。もっとも大切だと信じた忠に殉ずること以外に何もなかった、そのためには自らを永遠に埋没して悔いぬとの純粋さでした。私は、太平記も外史も、この純粋さに心を打たれて、あのやうな名文を作ったのだと思ひます。
私は、戦ひの勝敗も功業の成否も問はず、ただ忠に殉じて行ったところに楠公の精神があり、その精神を全面的に継承したところに、菊水の楠氏一門の精神がある、と信じてゐます。この精神が後世の日本人を「結果」的に感動させた。それで、日本人の中からは、功業の成否を問はず、ただ純粋に忠に殉じて、おのれを永遠に埋没しても悔いぬといふ人人が、陸続として現はれて来たと思ひます。かの明治維新にさいして、日清、日露の役にさいして、多くの日本人が湊川の楠公を想うて、無名のままに戦死しました。大東亜戦争において、絶海の大洋の中に、功業の成否を問はず、ただ忠に殉じ「死ありて他なかれ」との楠公の一語を、そのままに散って行った多くの忠烈の青年を生み出しました。かれらの名を銘記して、後世「太平記」「外史」が著されるか、それとも永遠に無名のまま埋没するかは、分らない。しかしその名が残らないでも、その功業が残らないでも、忠に生き忠に死するを本望とするといふところにこそ、湊川の精神がある。この湊川の精神が、日本の国を黙々として守り、支へて行く有名、無名の数多(あまた)なる日本人の忠誠心の典型として仰がれるものなのであります。
六
私は、湊川の死戦は「役に立たなかった」といふかぎりに於ては、福沢の論理にはある意味で一理があると思ひます。楠公は、建武以前には赫々たる功業を樹てたが、足利との戦ひに於ては、一敗地にまみれて、その戦ひは有効な成果を生みえませんでした。だが、一敗地にまみれて果てし湊川の楠公を、最高の忠臣として仰ぎ、そこに最高の感激を感じて来た日本の精神史を、高貴であると信ずるのであります。勝敗は時の運により支配され、功業の成否は、天によりて定まる。人間精神の偉大さ、高貴さは、その勝敗成否に心をうばはれることなく、良心の命ずるがままに忠なることにある。もとより男子たる者、戦ひの場に臨んでは、最後の一瞬にいたるまで、全力を投入して勝つために戦ふ。それでなくては戦ふ意味もない。事に臨んでは、その目的成就のために、斃れてのち止むの奮闘を惜しんではならない。それでなくては行動の意味もない。しかしながら、形に於ける勝敗、成否は、決して第一義を決するものなのではない。何を志として、いかに雄々しく戦ったか、何を志としていかに熱意をもって事に当ったか、といふところにこそ、人生の第一義がある、と申さねばなりませぬ。
私は、湊川の社前に立って、楠正成公に礼拝するときに、その左右の正成公とともに「死ありて他なかれ」と期して、亡びて行った楠氏の一党数百人の有名、無名の忠霊が、今もなほ、正成公とともに固く結んでをられる堂々たる雄姿を想見するのであります。湊川神社は、勝敗成否を第一義とせず、ただ忠誠のために、自らの生命も、功名も顧みないで、おのれを永遠に埋没して悔いぬ精神の結集するところなのであります。
湊川の楠公は決して功業の名将たることを期したのではありませんでした。その最後は必ずしも功業の死ではなかった。だがその楠公を、天下第一の忠烈の名将として仰ぐにいたった日本の精神史は、まことに偉大であり、高貴であると信ずるのであります。
本稿は昭和四十三年に湊川神社発行の「大楠公」に寄稿されたものを、当神社の許可を頂き転載したものである 編集部
民族戦線 平成三年七月一日(第50号)より
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