生 野 義 挙
〜維新の魁〜



生野義挙が起こったのは文久三年十月、明治維新を六年後に控えた動乱の時代だった。

◆ 万延元年に桜田門外の変があり、その頃に公武合体論を唱えた老中安藤信正も坂下門の変にて切られ、文久二年四月には、伏見寺田屋に勤王の志士達が斃れた。
 そしてこの頃に、長州藩を背景とした尊皇攘夷の勢力が日増しに拡大し、討幕を目標とする攘夷親政の計画が進められたが、幕府の権威を守る為薩摩藩と会津藩が起こした八月十八日の京都政変により、三条実美ら尊攘派の七卿都落ちと共に長州藩の禁門守護の任も解かれてしまった。
 この政変直前に、中山忠光卿を中心とした攘夷親政の先鋒である天誅組は大和五条の代官所を襲撃し、幕末最初の討幕の狼煙を上げたのもつかの間、怒涛の如く押し寄せた近隣諸藩の兵に完全包囲されてしまう。
 文久三年九月二十四日、吉村寅太郎・藤本鉄石らの天誅組は東吉野の鷲家口に散り、血の色に染まった十津川の流れは全国の勤王の志士達に討幕をより強く意識させた。

◆ さて但馬には、中島太郎兵衛・北垣晋太郎・本多素行・美玉三平・平野二郎らによって朝廷から正式に認可された農兵組織があったが、攘夷派の彼等は天誅組の志に呼応し、生野に討幕の兵を挙げる事に決し、都落ち七卿を総帥に戴くため長州三田尻へ北垣と平野が発った。
 十月二日、沢主水正宣嘉卿に従う南八郎・戸原卯橘ら二十七名の志士と共に、北垣・平野は船で姫路をめざし、十月十一日には一行は生野へ到着した。
 午後二時には延応寺に集結した志士の内、白石簾作と川又佐一郎が沢卿の書状を持って代官所へ走り代官所借用の談判をするが、代官川上猪太郎不在のため話が進まず、やむお得ず当寺で夕食をとり、烏帽子直垂の沢卿を先頭に隊列を整えた一行は、丹後屋太田治郎衛門の邸へ移動する。
 翌十二日未明、代官所を占拠し本陣を定め、運上蔵を開き金と米を出させ、沢卿の檄文を各村々に発表し農兵を募った。
 この時の触れ役は、侍髷に後鉢巻き、ぶっさき羽織に義経袴、大小を差して四枚肩の駕籠を走らせ、至る所の村々の庄屋で檄文を読んでは先へ行ったという。檄文の内容と三年間年貢半減の約束に、即日五千人を越える農兵が朝来郡と養父郡から生野へ集結した。
 檄文に曰く
「先年開港以来、御国体を汚し奉り、小民ども困窮いたし候を、御憂い遊ばされ、度々関東へ攘夷の勅諚下され候えども、終に受け奉らず、朝廷を蔑如し奉り、度々毒薬を献じ候処、皇祖天神の保護に依り、玉体恙なく在らせられ候処、去る八月十七日、奸賊松平肥後守、偽謀を似て、禁門に乱入し、関白を幽閉し、公卿正義の御方々参内を止め、御親兵を解き放ち、言路を隔絶し、恐れ多くも今上皇帝、逆賊の囲中にあらせられ、実に千秋一時の一大厄を、恣に処置いたし候始末、倶に天を戴かざるの仇に候。嗚呼卒土の浜誰人か涕泣せざらんや、男子胆を張り、身を擲ち候は此時に候、但馬国は、人民忠孝之志厚く、南北の時節にも賊足利に与せず、皇威を揚げ、国体を張り候条聞召し上られ、兼ねて頼もしく奇特に思しめし候。早々馳せ集まり、大義を承り、叡慮を奉し、奸賊を平らげ宸襟を安んじ奉るべく候事。 沢主水正亥十月但馬国旧家有志人々江」
というものだったが、これに呼応した農兵が生野に集結する頃、天誅組の大和義挙敗戦の一報が本陣に届いた。
 この報によって、平野二郎の義挙中止論と南八郎の強行論とに意見が別れ、中止の本陣と強行の先陣とに志士達が分裂した。
 当初の計画は、十月二日に戸原卯橘が長州三田尻から郷里の筑前秋月に出した手紙にあるように「三丹を服従致させ、直に京師へ罷越し、皇朝の恢復遠からずと存じ候えば、今日より発足致し候」というものだった。
 さて、先陣として北面の守りについた南八郎や戸原卯橘の正義同盟の志士達は山口西念寺に赴き、大挙出陣して来る出石藩に備えることにした。
  翌十三日に先陣は要害の妙見山に陣を移し、大砲や水などを妙見堂に運び上げて決戦の構えを整えるが、同夜になって生野本陣は各部署巡視の名目で逃走した沢卿のために、「軍備を整え再挙を謀らねば大和と同じ運命を見る」との意見に一致し、断腸の思いで解散した。
 逃走した沢卿が生野本陣の机上に残したのは、「頼みもし恨みもしつる宵の間のうつつは今朝の夢にてありぬる」との一首だけであった。
 翌十四日朝になって、生野本陣解散に驚いた農兵達は掌を返すように志士達に鉄砲や竹槍を向け始め、そこへ出石藩の巧妙な宣伝と恫喝が加わったため、志士達は農兵と戦わねばならなくなってしまった。
 黒田与一朗は、この生野の出来事を山口の先陣に知らせ、伊藤竜太郎が妙見堂へ先陣退却を進言しに行ったが、「生きて醜名をさらすより討死にするにしかず」と南八郎は笑って答え、今生の別れにと一献酌交じわした。
 午後になって西念寺の早鐘が打ち鳴らされ、鉄砲や竹槍で武装した農兵達が続々と妙見山に集まってきたが、今更農兵と戦う訳に行かない志士達は山伏岩まで山を降って来た。
 山の麓を流れる円山川あたりに陣取った農兵達は、その山伏岩めがけて一斉に鉄砲を打ちかけて来たために、最早これまでと覚悟を決めた小田村信之進は岩の上に腹帯を広げ、右手の指を噛み切り流れる鮮血で「大日本山陽一狂生小田村信一藤原義行為皇威恢復今日討死」と大書した。
 その時、一発の銃弾が小田村の胸を貫き、岩陰に引き入れたが間もなく死んだ。
 志士達は最後の時が来たのを知り、南八郎以下次々に切腹し、戸原卯橘が全員の介錯を済ませて岩の上に立ち、川辺の農兵達に大きく手を振った後に大刀で喉を貫き、岩から飛び降りて果てた。肥田佐衛門と草我部某も山裾の薮の中で刺し交えて死んだ。
 戸原卯橘二十九才・南八郎二十三才・白石簾作三十六才・和田小伝次二十九才・小田村信之進二十六才・長野熊之丞二十二才・下野熊之進二十一才・久富豊二十才・伊藤百合五郎十九才・山県英太郎十八才・西村清太郎十八才・肥田佐衛門四十才・草我部某年齢不詳、義挙十三烈士の生涯である。
 小川吉三郎は納座村の山で腹を切り、美玉三平と中島太郎兵衛は木ノ谷で銃弾を浴び動けなくなり、黒田与一朗が各々を介錯の後に大刀を捨て大手を広げて縛についた。長曾我部太七郎と中条右京の両人も、播州路の追上で銃弾を浴びて死んだ。
 すべて十四日の出来事だった。
 その後、農兵達が点検の為に妙見堂に入ってみると、鎧甲四着・鉄砲十挺・大刀数振、農家から借り上げた入用品の目録、そして前夜山裾の部落から差し入れられた猪肉炊き込み飯が入っていた飯桶などが整然と並び、板壁には「思いたつ事はならねど大丈夫のこころ正しき末の道かな」との戸原卯橘の辞世が墨痕鮮やかに記されていた。

 翌年の元治元年一月九日には、生野・出石・豊岡・姫路の獄舎にあった十一人の志士達が姫路に集められ、網乗物に警護三百人、鉄砲四十五挺という物々しい行列で京六角獄へ送られた。
 平野二郎・本多素行・黒田与一朗・伊藤竜太郎・横田友次郎らの志士達が六角獄舎に到着した時そこには既に天誅組の捕らえられた志士達がいた。
 この六角獄舎の中で平野は、神皇正統記を講和しながら尊皇を説いていたと言われる。
 この年七月十九日、禁門の変が起こり京の町は応仁の乱以来の大火となり、翌日となっても大火は鎮まらず、狂乱した六角の獄吏達は囲中の志士に次々に槍を振るい始めた。三十三人の勤王志士達が次々に斃れる中、平野は端座して皇居を伏し拝み、辞世を詠み終えた後、静かに着物の胸を開き「いざ」の声と共に槍二本を受けて果てた。三十七才にして雪の如き白髪であり死顔は笑みさえ浮かべていたと伝えられる。
 志士達の遺骸は西の仕置場に埋められ、長く慰霊さえ行われなかったが、明治十年に但馬人吉井義之が遺骨を掘り出して改葬した。京都上京区の竹林寺には、改葬された志士達の遺骨が静かに眠っている。

◆ 山口の里人達は義挙の翌月より山伏岩の隣に十七志の碑を建て、彼等の尊皇精神を称えて参拝を絶やさなかったと言う。
 慶応二年、筑前の謹皇家として名高い野村望東尼がこの地を訪れ「但馬にて世の為に失せ給いし君たちのみたまに手向けまつらん」として、十七志碑の前で歌を詠んだ。「武士の道をいくののしるべにて先ずふみわけし 神はこの神」 非業の死を遂げた志士達の御霊だが、明治十一年には維新前後に斃れた志士の御霊をすべて合祀し、官祭とする事に決まった。


 議 論 よ り

   実 を 行 へ な ま け 武 士

    國 の 大 事 を 余 所 に 見 る 馬 鹿

  皇國草莽臣 南 八郎