戦後の原点『ポツダム宣言』  知覧残照




戦後の原点『ポツダム宣言』



 戦後、日本は軍国主義国家から、民主主義・平和国家に生まれ変わったといわれる。そして、その象徴が日本国憲法であり、それゆえ日本の政治はこの日本国憲法に基づいて行なわなければならないと考えられている。確かに、戦後の日本は、この日本国憲法という制約の中でしか行動できなかった事を考えると、日本国憲法こそが戦後日本の原点だと言えなくもない。しかし、戦後の日本の進路が、日本国憲法が制定される以前、すなわち「ポツダム宣言」の受諾の時_においてすでに決せられていたのであり、その意味において、戦後の原点は「ポツダム宣言」にあったといえる。それゆえ、戦後の日本が抱えている様々な問題は、「ポツダム宣言」を読み解くことによって深く理解されるのではないかと思われる。

1、 連合国による威嚇 「ポツダム宣言」
 第二項から第三項までは、連合国がいかに強大な軍事力を保持しているか、そしてその使用によって日本の壊滅がもはや時間の問題であるから日本は早く降伏すべきであるということを示したものである。
 そして、第三項の「吾等の軍事力最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全な壊滅を意味すべく、叉同様必然的に日本国土の完全なる破壊を意味すべし。」という個所は、原子爆弾の使用を仄めかしていたものといえる。
 勿論この事は、今になって言えることであって、当時の日本政府としては、アメリカが原子爆弾を使用するなどということは夢想だにできなかったのであるから、「ポツダム宣言」を黙殺する以外に方法はなかったといえる。
 日本政府のこの黙殺を「ポツダム宣言」受諾の拒否と解したからこそトルーマン大統領は、原子爆弾を日本に投下したのだ考えられているのだが、もしも、「ポツダム宣言」の中に、日本が「ポツダム宣言」を受諾しなければ、原子爆弾を投下するという警告の一文が挿入されていたなら、日本は七月二十六日の時点で「ポツダム宣言」を受諾していたかもしれないし、その結果として原子爆弾による被害は被らなかったかもしれない。
 確かに、原子爆弾の投下に当たっては、アメリカ軍部内にあっても、もはや日本は壊滅寸前であり、降伏することは時間の問題なのであるから、原子爆弾を投下することは全く必要のないことであるという意見や、何らかの予告無しに原子爆弾を投下することは、人道に悖る行為であるから、事前に警告を発してから投下すべきであるという意見も多くあった。ところがトルーマン大統領はこれらの意見に耳を貸すことなく、原子爆弾投下に踏み切ったのである。
 これはトルーマン大統領が、ル ーズベルト大統領の遺志を受け継ぎ、相当早い時期から原子爆弾投下の決意をしていたからにほかならない。この事については、ロナルド=タカキの『アメリカはなぜ日本に原子爆弾を投下したのか』において詳しく述べられているので、詳述することは避けるが、「ポツダム宣言」はトルーマン大統領にとって、原子爆弾投下への格好の理由付けの宣言書だったのである。
 日本がこの時点で「ポツダム宣言」を 受諾していたなら、それはトルーマン大統領にとって外交上好ましからざるものであったであろう。
 原子爆弾投下は、日本を最終的に屈服させるためのものではあったが、それよりもむしろ、戦後世界をアメリカが主導していくためのデモンストレーションとし必要欠くべからざるものであったのである。このトルーマン大統領の考えは、原子爆弾投下を肯定的に捉えるブッシュ前大統領やクリント淘蜩摎の考えに引き継がれているといえる。

2、 自由主義と軍国主義
  「ポツダム宣言」第4項と6項には、連合国は自由主義の国々を代表して、軍国主義国家ドイツ及び日本と戦っているのであり、自由主義国家に正義があり、軍国主義国家は悪であるということが明記されている。
 戦後、第2次世界大戦は、自由主義 陣営と全体主義陣営の戦いであったという歴史観が一般的なものとなってしまったが、この第2次世界大戦に対する考え方は、すでに「ポツダム宣言」において定められていたものであるといえる。
 そして、この考え方は戦後世界を支配し、今日に至っても尚その力を失っていない。ただ、「ポツダム宣言」は、軍国主義ではあるが、日本国そのものが悪いというのではなく、日本国をミスリードしてきた軍国主義者が悪いのであって、日本国民はむしろ彼らに騙されていたのだということを強調している。
 これには明らかに連合国の軍国主義者と国民を分断し、日本を占領統治しようとする意図が見られる。すなわち、これは戦争責任の全てを軍国主義者に負わすことによって、国民全てが負うべき責任を国民から逃れせしめ、マスコミ、学者、教育者をして戦前の日本国を全面的に批判させようとする狡猾な占領政策に基づくものだったのである。
 もちろん、第二次世界大戦に対するこのような評価は、連合国側の一方的な評価にすぎないのであり、「ポツダム宣言」の第4項と6項は、連合国側の偏見と誤解に基づくものだったと言うことが出来る。
 よく、「ポツダム宣言」の勧告 に際し、日本国政府は速やかにこの宣言を受諾し、戦争を終結すべきであった。この「ポツダム宣言」を受諾するかどうかの日本政府の逡巡が原子爆弾の投下を招き、日本国民に多大犠牲を強いる事になったのだということが、戦後多くの識者によって言われているのであるが、「ポツダム宣言」第4項と第6項が、日本政府の戦争に対する考えと全くかけ離れたものであったがために、日本政府は「ポツダム宣言」を黙殺するという行動に出たことを理解しなければならない。
 日本は「ポツ ダム宣言」を受諾したのであるが、果たして「ポツダム宣言」にあるような第2次世界大戦に対する考えが正しいかどうか、今日我々はよく考えてみるべきであろう。

3、 「無条件降伏」という錯覚
 日本人の多くは、日本は大東亜戦争に敗れ、連合国に「無条件降伏」したと信じている。
 確かに、あれだけ徹底的に叩きのめされたのだから、日本が「無条件降伏」したと考えられてもいたしかたない。
 しかし、厳密に「ポツダム宣言」を読むなら、日本は決して「無条件降伏」したのではないことが明らかである。
 なぜなら、「ポツダ ム宣言」の第5項に、「吾等の条件は左の如し。」と明記されているからである。ここで言う吾等とは第1項にある合衆国大統領、中華民国政府主席、グレイト・ブリテン国総理大臣のことであり、「ポツダム宣言」というのは A 「我々は、左に掲げる ような条件を提示するから、日本は速やかに降伏しなさい。」という連合国による降伏勧告書なのである。そして、その条件というのが、第6項から13項において示されているのである。
 この条件を掲げてあるということ自体、日本の降伏が「有条件降伏」であったということを如実に示しているではないか。
 「ポツダム宣言」が日本国の「有条件降伏」を示していたということは、「ポツダム宣言」の2年前に出された「カイロ宣言」からしても明らかである。
 すなわち、「カイ ロ宣言」の最後に「日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大で長期間の行動を続行する。」とある。
 「カイロ宣言」には明らかに「日本国の無条件降伏」とあるが、「 ポツダム宣言」にはこの言葉は見られない。このことは、明らかに2年の間にアメリカ政府の日本に対する考え方に変化が見られるようになったということである。
 「 カイロ宣言」が発せられた時には、ルーズベルト大統領はあくまで日本の「無条件降伏」に固執していた。ところが、ルーズベルト大統領の死と、グルー元駐日大使の提言、そして日本軍の敢闘がアメリカ政府をして日本に「無条件降伏を認めさせることは得策ではないということを悟らしめるに至ったのである。
 このことが「カイロ宣言」の文言から「ポツダム宣言」の文言への変化となって現れたのである。
 では、これほど明らかに「有条件降伏」ということが、「ポツダム宣言」の中に示されているにもかかわらず、なぜ日本の降伏が「無条件降伏」として理解されるようになったのであろうか。
 それは、「ポツダム宣言」第13項の「吾等は日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、云々」という個所に「無条件降伏」という言葉があることから日本は「無条件降伏」したのだと理解されるようになったと考えられる。
 しかし、注意しなければならないことは、この場合「無条件降伏」の主語は日本国軍隊であって、決して日本国政府ではないということである。
 すなわち、「無条件降伏」するのは、あくまでも軍隊であって日本国政府ではなく、日本国政府は無条件に連合国の支配を受け、連合国に従属するものではないのである。この政府と軍隊を混同したところに、このような間違いが生じたといえる。
  ところが実際には、日本は戦争に敗れ、日本国政府が降伏したのであるからそれは明らかに「無条件降伏」であって、それを「有条件降伏」とするのは、詭弁に過ぎないとする意見が今日なおも根強く残っている。
 しかし、それは厳密を欠いた議論と いうべきで、そのような考えこそ物事の本質を眩ます恐れがある。
 確かに日本は戦争に敗れたけれども、「ポツダム宣言」受諾の時点でも明らかに確固たる政府が存在していたのであって、ドイツのように政府が崩壊してしまっていたのとは全く訳が違う。日本国政府の主権は、維持されていたのであり、「国体の護持」という条件を日本から提示して「ポツダム宣言」を受諾したのであるから、日本は明らかに「有条件降伏」をしたと考えるべきであろう。
 また、「ポツダム宣言」が「有条件降伏」であったにもかかわらず、「無条件降伏」と考えられるようになったのは、アメリカ占領政策にあったと考えられる。すなわち、アメリカは、「カイロ宣言」から「ポツダム宣言」において見られるように日本に対する政策を転換したのであるが、アメリカの本意はあくまでも「無条件降伏」にあったのであり、形式的には「有条件降伏」であっても、実質的には「無条件降伏」を日本に認めさせようという意図を持っていたのである。
 それは、あの「バーンズ回答」に表れていたといえる。
 この「バーンズ回答」というのは、明らかにアメリカが日本に対して「無条件降伏」の承認を迫ったものである。
 勿論これは「ポツダム宣言」違反といえるものであったが、アメリカは天皇訴追をちらつかせて、「無条件降伏」を日本に認めさせようとしたのである。これに対し日本側は、この「バーンズ回答」が「無条件降伏」を意味するということを知りながら、これが「ポツダム宣言」違反であることを主張することをもなく、「subject to」の味を「従属する」と訳さず、「制限の下におかれる」と「有条件降伏」であるかのごとき姑息な訳をしてしまった為に、アメリカは日本が「無条件降伏」を承認したものと見做したのである。
 そしてそれにしたがって、アメリカは占領政策を展開して いったのである。
 このような日本側の対応の仕方が、かえってアメリカ側の横暴を許すことになったのであり、日本が過酷な占領政策を甘受しなければならなかった責任の一端は、日本側にあったということが出来る。この時、日本が「ポツダム宣言」を楯に連合国も「ポツダム宣言」を遵守べきであるということを主張していたら、今日のような日本人の精神の荒廃を招くということはなかったであろう。

4、 「カイロ宣言」の履行
 「ポツダム宣言」の第8項には、「カイロ宣言の各項は、履行せらるべく、」とある。
 その「カイロ宣言」には同盟国は、自国のための利益を求めず、また領土拡張の念も有しない。「同盟国の目的は、1914年の第1時世界大戦の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋における全ての島を日本から剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取した全ての地域を中華民国に返還することにある。」とされている。
 ここには明らかに三大同盟国、特に米・英の領土についての考えに欺瞞が潜んでいることが分かる。
 つまり、「自国の為には利益も求めず、領土拡大の念もない」と言って自らの無欲をことさらに宣伝しているが、第1次世界大戦開始以後といっていることに大きな問題が存するのである。
 すなわち、1914年以前に溯れば、米・英は、世界各地に植民地を持ち、正に両国は領土的野心の権化ともいうべきで、この野心を隠蔽し、過去に犯した自らの罪を暴露されるのを避ける為に、この年代を定めたのである。
 この年以前のことを言うと、英はインドも香港もビルマも返さなければならないし、米はハワイもフィリピンも返さなければならない。
 しかし、1914年以前のことは問わないとすることは、米・英にとっては都合の良いことであるが、それでは日本の台湾及び朝鮮の領有は認めなければならないことになる。そこでわざわざ1914年以前に溯るが、日本から台湾及び朝鮮の領土を奪う為にこれらの領土を特筆したのである。
 この事から、「カイロ宣言」はいかに日本だけから領土を奪うことだけを考え、苦心して作られた文書であるかということが分かる。
 「カイロ宣言」は、日本が正当な手続きを経て手に入れた領土を「盗取」したとして、それを剥奪すると述べているが、それだけではなく「ポツダム宣言」の第8項は「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸島に局限せざるべし。」とし、「吾等の決定する」という留保を設けて、日本の領土であっても、連合国の思いのままに処理しうる権利を残しておいたのである。
 これがソ連の北方領土奪取の口実になったのである。

5、 シベリア抑留という犯罪
  「ポツダム宣言」の第9項には、「日本軍隊、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営むの機械を得しめらるべし。」とある。
 日本政府が、「ポツダム宣言」を受諾し、降伏文書に調印した後、太平洋の島々、中国、東南アジアの各地にいた日本軍将兵は、武装解除された後、速やかに復員することが出来た。これは連合国側の寛大な処置として、彼らに感謝しなければならないのであるが、これらの処置の裏で、過酷な、また不当な戦争犯罪人の処罰が行われていたことを我々は忘れてはならない。
  A級裁判もさる事ながら、B・C級裁判はまさに英・米・蘭・中国による復讐裁判と言ってよく、刑の過酷さはもち論の事、多くが冤罪であった事を考えると、正に「ポツダム宣言」にある「各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営むの機械」を奪われたといってよいだろう。
 特に許し難いのは、ソ連による50万以上にものぼる日本軍将兵のシベリア抑留であろう。
 ヤルタ秘密協定によって、ルーズベルトはスターリンに日本への参戦を許し、日本領土の割譲までも認めておきながら、例えソ連が「ポツダム宣言」の署名国ではないにしても、スターリンに日本参戦を認めた以上、ソ連の日本軍将兵のシベリア抑留を阻止する責任はあったはずである。
 此処においても、アメリカの「ポツダム宣言」違反は明らかであろう。

6、 「ポツダム宣言」 に反する東京裁判
 「ポツダム宣言」の第10項に、「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人にたいしては厳重な処罰をあたえらるべし。」とある。
 東京裁判の開廷にあたって、日本政府は「ポツダム宣言」を受諾したのだから、東京裁判が行なわれる事はやむを得ない事だと考えていたのであり、日本の軍隊が各地で行なったいわゆる戦争犯罪は、パリの不戦条約においても禁止されていたのだから、厳重な処罰を受けても致し方ないと考えていた。
 しかし、東京裁判は「ポツダム宣言」第10項に書かれていた戦争犯罪人の処罰についての概念を逸脱し、「平和に対する罪」「人道上の罪」という罪状で日本を裁いたのである。これらの犯罪は国際法上存在しない罪であることは勿論であるが、極東国際軍事裁判条例そのものが、「ポツダム宣言」を越えて制定さるべきではないにも関わらず、「ポツダム宣言」を逸脱して条例が制定された事は、アメリカの「ポツダム宣言」の重大な違反といえよう。

7、言語、宗教及び思想の自由
  「ポツダム宣言」において、「日本政府は、言論、宗教及び思想の自由を確立すべき」ことを勧告している。
 これは連合国が日本政府に対して、日本国民の言論、宗教及び思想の自由を確立する努力をすべきであるという勧告であるが、連合国は日本における言論、宗教、思想の自由は認めないという矛盾を「検閲」というものによって犯す事になる。
 これは正に「ポツダム宣言」第10項の「吾等は、日本人の民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとする意図を有するものに非らざるも、」という宣言に明らかに抵触するものといえる。
 奴隷というものは何も肉体的に人間が強制されるものを言うのではなく、精神的に強制される場合もいうのである。言論の自由、宗教、思想の自由を奪うことは、正に人間を奴隷化する事ではないだろうか。占領期間中、日本人の言論の自由、宗教、思想の自由を「検閲」を通してアメリカが奪ったという事こそ、アメリカが「ポツダム宣言」に違反した最大のものといえないだろうか。叉、「基本的人権の尊重」云々しながら、東京裁判において、被告人の「基本的人権」が全く尊重されなかったということは、アメリカの矛盾此処に極まれりというべきであろう。
 
 以上、「ポツダム宣言」における問題点について述べてきたのであるが、「ポツダム宣言」は、あくまで条約であるという見地から、日本はもち論の事であるが、連合国も同じように遵守すべきであることを、遅きに失したと言えども世界に向けてこれからもアピールしていくべきであり、特に教育現場において「ポツダム宣言」の本当の意味を児童・生徒に教えていくべきであろう。

「 民族戦線」68号より





知覧残照

 知覧という町の名を耳したことのある人は、おそらくそれほど多くはないであろう。だが、知覧は日本人にとって忘れることのできない町、いや決して忘れてはならない町なのである。
 知覧は、昭和20年、日本の敗色が濃厚となってきた頃、特攻基地がおかれたところであり、昭和60年にはこの基地から飛び立って散華した特攻兵士の遺品などを展示するために平和記念会館が建てられ、最近では修学旅行生も多く訪れるようになった町である。
 私は以前から特攻基地のあった知覧のことは何度か耳にしており、いつかは行ってみたいと思っていたのであるが、ようやくこの春その夢を実現することができた。

 特攻基地のあった知覧は、戦後50年を経て再び人々に注目されるようになったが、もともとは薩摩藩の武家屋敷があったころとしてその名が知られていた。そこで私は知覧の特攻記念館に行く前に、この知覧の武家屋敷に立ち寄ることにした。
 この武家屋敷というのは、道路をはさんで700メートルにもわたって並び立つ江戸時代に建てられた30数件の建造物のことであるが、そのうち何軒かには他府県に残る武家屋敷とは違って、今でも人が住んでいるということであった。そのことを知り、私は歴史の連続性というものを感じざるを得なかった。これらの武家屋敷は江戸時代そのままに保存されており、この武家屋敷群に一歩足を踏み入れるや、まさに江戸時代にタイムスリップした感じがして、頭の中の時間感覚が狂ってしまったのではないかと錯覚するほどであった。時たま通り過ぎる観光客の一団によって現在に連れ戻されることはあったが、彼らの姿が見えなくなり、周りに人の気配がしなくなって再び静寂が訪れると、あたかも過去によって私の身体がすっぽりと包み込まれたような感じさえした。
 武家屋敷の中に入ると、各家それぞれ少しずつその形式を異にした枯山水の庭園を見ることができたのであるが、まさにこの庭園の見事さが知覧の名を高からしめているのである。ただ知覧は庭園は、京都の枯山水と比べると、石組み、樹木、草花などにおいてどことなく異なった趣を醸しだし、南国情緒を漂わせており、まさに鹿児島の地にいることを実感させてくれるに十分であった。各武家屋敷の塀はこの地方独特の石を積み上げて作られたものであり、また玄関に至る通路も両脇は同じ石で囲まれ、しかも屈折した石の配置になっていた。それはおそらく敵の侵入を防ぐ目的でそのような工夫が設されているものと考えられる。薩摩藩は徳川幕府による一国一成制の掟を守って藩内に鶴丸城以外の城を築かず、領内に113もの外城を築き、防衛の任に当たらせていたが、知覧のような武家屋敷群もその一つだと言われている。それは「人をもって城となす」という島津氏の考えに基ずくものであったが、静かな武家屋敷の佇まいの中にも防衛というものが組み込まれていることに昔の人の知恵を垣間見る思いがした。

 武家屋敷群から2キロほど南に下がったところに知覧特攻記念館がある。私の今回の旅行における第1の目標がこの記念館にあったので、期待に胸膨らませて記念館に入った。
 そこでまず目についたのは、知覧基地から飛び立って帰らぬ人となった1000名ほどの特攻隊員たちの写真であった。みんな20歳そこそこの人たちばかりで、どこかまだ少年の面影を残している人もいた。
 じっとこれらの写真を眺めていてふと心に浮かんできたことは、50年ほど前にはこの人たちは生きていたのに、今はもういないのだという奇妙な感であった。彼らは戦争というものがなかったならば、みんな今日でもなお元気で生きていてもおかしくない人たちばかりだ。だがこの人たちはもはやこの世に存在してないのだ。そう考えると、どうすることもできない隔たりが彼らと私の間にはあり、写真の変色した黄色い色が私と彼らの距離をより一層隔ててしまうかのように思えた。
 しかし、遠い過去からこちらを見る彼らの顔からはなぜか優いや悲しみの感情が伝わってこない。みんな凛々しく、清々しい顔をしている。今から死に行く人たちの顔にどうしてこのような表情がみられるのだろうかと思うと、「モナリザの微笑み」にあるエニグマ(謎)にも似て、その不可解をなんとか知りたいという気にもある。また、彼らの顔をじっと見て気づいたことは、彼らの顔つきと現代の青年の顔つきに非常に違いがあるということである。それは特攻兵士の顔の方にはまじめさと意志の強固さと不撓不屈の精神が張っているのが感じられるんのに対して、現代の青年の顔にはあか抜けしたスマートさはみられるが、ひ弱さを感得せざるをえないということである。どうしてこのような差がみられるのであろうか。それは戦時と平時における青年達の心構えの違いによるものだといえるのではないだろうか。つまり生命というものに対する考え方の違いによるものだということができる。

 日本は250万の将兵の命と引き替えに平和を手に入れることができたのであり、そのことによって今日の日本人は己の生命を危機に臆することもなく、平和を享受し、豊かな生活を送ることができるようになったのである。ところが平和の美酒に酔いしれているあいだに平和と戦争が表裏一体であることが忘れ去られ、平和は日本人にとって絶対的な理念になりおおせ、学校では平和教育が教育の柱となり、国家にとっても平和というものは最も大切なものであると考えられるようになった。
 そして戦争がなく、平和でありさえすればすべてよしという考えが人々の心に浸透し、平和を実現するためにはいかなることをすればいいか、また平和が脅かされたならばいかなることをしなければならないのかということは一顧だにされなくなってしまった。いやそんなことを考えることこそが平和に抵触することであり、ただ単に平和を念仏のように唱えておりさえすれば戦争は起こらず平和は実現されるのだと考えられるようになってしまったのである。 
 平和を実現するために戦争すら辞さないなどということは、自己矛盾も甚だしく、生命を大切にすることことこそが最も大切なことだと考えられるようになったのであるが、戦後の平和主義はこの生命尊重主義と固く結びついて日本人の理念となってしまった。まさに日本では生命は地球よりも重しということが、平和を実現するために不可欠なものだと考えられるようになったのである。それゆえ学校においても平和教育と共に生命尊重の教育が最も重んじられるようになったのである。
 生命さえあればいいのであり、その生命を守ることが人間にとって一番大切なことであると考えられるようになった。しかし、その大切な生命が何のためにあるのかということはなんら問われることもなく、生命そのものに価値があり、生命そのものが目的とされるようになったのである。その意味するところは、人間の生命も犬猫も区別がないということであろうか。
 確かに仏教などの生命平等観にたてば、人間の生命も犬猫の生命も同じであるといえようが、現実の世界においては決して同じだということはできないであろう。たとえ人間の生命と犬猫の生命が同じ価値を持つとしても、人間の生命が尊いのは、人間は絶対的価値のために己の生命を用いることができるからではないのか。つまり生命そのものが尊いのではなく、絶対的価値が尊いのであり、生命は目的ではなく、手段であって、人間は己の生命を手段として用い、絶対的価値を実現しようとするからこそ尊いのであるというべきはないだろうか。

 現代の青年はあか抜けていて、スマートであるといったが、それは彼らが生物として栄養を十分に取り、文明の恩恵に浴し、生命を躍動させているからであって、彼らが絶対的価値を実現しようと努力した結果によるものではない。彼らは自らの生命を何の為に用いるかということを問いはしない。すなわち、絶対的な価値を追求するために己の生命を用いているのはないのである。現代の青年はただ単に生きているだけに過ぎないと言えば言い過ぎであると思われようが、この生き方こそが彼らの顔に表れているのでないか。
 生命はより高い価値のために用いるのであって、その為には時には大切な生命を捨てばならないこともあるのである。むしろ、この高い価値のために己の生命を捨てる覚悟を持った時、生命は美しく光輝くのではないか。 
 特攻兵士たちは、決して喜んで死んで行ったのではないのであろう。国や政府を恨んで死んで行った者もいたであろう。犬死にだと分かって飛び立って行った者もいたであろう。しかし、多くの者は国のため、妻や子のため、己の生命を犠牲にして死んで行ったのではないか。記念館に残る彼らの手紙には、繰り言は一切なく、かならず敵艦を轟沈してみせるという意気込みとともに、生命などは惜しくない、己の生命を犠牲にして国に奉公するのだという覚悟のほどが力強い筆致で書き記されているのである。 
 このような心意気、自己の生命を捨てて国のために尽くすという覚悟、そのような考え方、生き方が彼らの表情に表れ、かくも凛々しく、美しく清々しい表情となって表されているのではないか。戦争という者はあってはならない。戦争は悲劇をもたらす。
 しかし平和の中で生きる人間が好ましい生き方をしているといえるだろうか。非行や犯罪の記事が1日たりとも載らなかった日がないといわれる今日、現代人の生き方をよしとし、特攻兵士が若くして死んでいったことを犬死にでばかなことをしたと誰が言うことができるだろうか。むしろ評論家の福田和也氏が現代人を評して、「救いようがなく醜さに絶えられない。」と言っているように、現代人は決してよりよく生きているとはいえないであろう。それに比べて特攻兵士たちはたった20年そこそこしか生きなかったかもしれないが、彼らの方がよりよく生き、またより充実した人生を送ったのでないと思わざるを得ないのである。

 春休みとあって、老若男女多くの人が記念館を訪れ、熱心に展示の写真や遺品を見て回っている老夫婦もいた。ところが実物の戦闘機飛燕の前に立った私の頭を、「この記念館を訪れた人はどのような思いで展示をみているのだろうか」という疑問がよぎった。「私の思いと彼らの思いとは同じであろうか。年とった人、若い人は同じ思いを抱いているのだろうか。特攻兵士への同情と共感のようなものを抱いてくれればいいのだが」と思いつつ、最後の展示室に入ったのであるが、「おや、この記念館の目的とするものはいったい何なのだろうか」と首を傾げざるをなくなるような光景を目にした。
 その光景というのは、部屋の壁いっぱい飾られた千羽鶴の束であった。千羽鶴を見て、ただちに思い出したのは広島の原爆ドーム前の千羽鶴であった。千羽鶴は平和の象徴である。となるとこの記念館も、実は平和教育のためのモニュメントではないのか。急にそんな疑問が湧いてきた。この千羽鶴の意味することろは「こんな若い兵士が国のために死んで、実はかわいそうだ。こんな悲劇が2度と再び起こらぬように、戦後世代の人間は平和を願い、平和を祈ろう」というものであろう。つまり、これは広島の「2度と過ちは繰り返しません」という反省の言葉につながるものである。
 特攻として散って行った1000人あまりの将兵に対して憐れみの情と同情を禁じ得ないのはもちろんのことであるが、それと同時に彼らの行為に対して「あなたがたのおかげで日本はこんな豊かな国になったのだ」という感謝と顕彰をこそ表明することが必要であり、また悠々の大義のために殉じた人間に対しては、「これこそ武士の魂、汝こそは日本男児だ」という賛辞を呈し、自分自身に対しては「祖国が存亡の危機に立ち至ったならば、己も彼らと同じことができるのか」と自問してみる謙虚さを持つことが必要でないだろうか。そうすることによってこそ、彼らの霊を慰めることができるのではないか。彼らの残したどの絶筆にも、「立派に手柄を立てて死んで見せます。」という言葉がみられる。彼らの熱き思いは、単なる平和への希望ではない。彼らは敵の殲滅をこそ誓って出陣していったのである。ところが彼らの願いは空しく潰え、日本は敗れてしまった。
 後世の者は、彼らの願いを継承し、尚武の心をもつことによってこそ、彼らの願いを現実のものとすることができると考えるべきではなかろうか。もちろん、再びアメリカを敵として戦争せよなどということを私は言おうとしているのではない。彼らが生命をかけて守ろうとしたこの日本に、後世の者がただ平和と豊かさだけを求め、諸外国の悔りを受けても意に介さず、自尊心も、矜持もなく暮らすことで満足していることが、果たして特攻兵士の心に添うことになるのかという疑問をなげかけているだけである。
 平和を祈念して折られた千羽鶴が、果たして特攻兵士の気持ちに応えたものといえるものであろうか。千羽鶴が象徴する平和主義を理念としてこの特攻記念館が建てられたとするなら、その主旨は沖縄の空に散った人々の意志とは大きく異なっているのではないとかと思われる。もちろん、彼らとて平和を願っていなかったわけではない。しかし、彼らの考える平和と今日の人々が考える平和とでは著しく異なっているのではないか。こんな私の疑問が単なる私の老婆心によるものであってくれれがいいと思うのであるが。

民族戦線70号より