知覧残照
片岡 洋二
知覧という町の名を耳したことのある人は、おそらくそれほど多くはないであろう。だが、知覧は日本人にとって忘れることのできない町、いや決して忘れてはならない町なのである。
知覧は、昭和20年、日本の敗色が濃厚となってきた頃、特攻基地がおかれたところであり、昭和60年にはこの基地から飛び立って散華した特攻兵士の遺品などを展示するために平和記念会館が建てられ、最近では修学旅行生も多く訪れるようになった町である。
私は以前から特攻基地のあった知覧のことは何度か耳にしており、いつかは行ってみたいと思っていたのであるが、ようやくこの春その夢を実現することができた。
特攻基地のあった知覧は、戦後50年を経て再び人々に注目されるようになったが、もともとは薩摩藩の武家屋敷があったころとしてその名が知られていた。そこで私は知覧の特攻記念館に行く前に、この知覧の武家屋敷に立ち寄ることにした。
この武家屋敷というのは、道路をはさんで700メートルにもわたって並び立つ江戸時代に建てられた30数件の建造物のことであるが、そのうち何軒かには他府県に残る武家屋敷とは違って、今でも人が住んでいるということであった。そのことを知り、私は歴史の連続性というものを感じざるを得なかった。これらの武家屋敷は江戸時代そのままに保存されており、この武家屋敷群に一歩足を踏み入れるや、まさに江戸時代にタイムスリップした感じがして、頭の中の時間感覚が狂ってしまったのではないかと錯覚するほどであった。時たま通り過ぎる観光客の一団によって現在に連れ戻されることはあったが、彼らの姿が見えなくなり、周りに人の気配がしなくなって再び静寂が訪れると、あたかも過去によって私の身体がすっぽりと包み込まれたような感じさえした。
武家屋敷の中に入ると、各家それぞれ少しずつその形式を異にした枯山水の庭園を見ることができたのであるが、まさにこの庭園の見事さが知覧の名を高からしめているのである。ただ知覧は庭園は、京都の枯山水と比べると、石組み、樹木、草花などにおいてどことなく異なった趣を醸しだし、南国情緒を漂わせており、まさに鹿児島の地にいることを実感させてくれるに十分であった。各武家屋敷の塀はこの地方独特の石を積み上げて作られたものであり、また玄関に至る通路も両脇は同じ石で囲まれ、しかも屈折した石の配置になっていた。それはおそらく敵の侵入を防ぐ目的でそのような工夫が設されているものと考えられる。薩摩藩は徳川幕府による一国一成制の掟を守って藩内に鶴丸城以外の城を築かず、領内に113もの外城を築き、防衛の任に当たらせていたが、知覧のような武家屋敷群もその一つだと言われている。それは「人をもって城となす」という島津氏の考えに基ずくものであったが、静かな武家屋敷の佇まいの中にも防衛というものが組み込まれていることに昔の人の知恵を垣間見る思いがした。
武家屋敷群から2キロほど南に下がったところに知覧特攻記念館がある。私の今回の旅行における第1の目標がこの記念館にあったので、期待に胸膨らませて記念館に入った。
そこでまず目についたのは、知覧基地から飛び立って帰らぬ人となった1000名ほどの特攻隊員たちの写真であった。みんな20歳そこそこの人たちばかりで、どこかまだ少年の面影を残している人もいた。
じっとこれらの写真を眺めていてふと心に浮かんできたことは、50年ほど前にはこの人たちは生きていたのに、今はもういないのだという奇妙な感であった。彼らは戦争というものがなかったならば、みんな今日でもなお元気で生きていてもおかしくない人たちばかりだ。だがこの人たちはもはやこの世に存在してないのだ。そう考えると、どうすることもできない隔たりが彼らと私の間にはあり、写真の変色した黄色い色が私と彼らの距離をより一層隔ててしまうかのように思えた。
しかし、遠い過去からこちらを見る彼らの顔からはなぜか優いや悲しみの感情が伝わってこない。みんな凛々しく、清々しい顔をしている。今から死に行く人たちの顔にどうしてこのような表情がみられるのだろうかと思うと、「モナリザの微笑み」にあるエニグマ(謎)にも似て、その不可解をなんとか知りたいという気にもある。また、彼らの顔をじっと見て気づいたことは、彼らの顔つきと現代の青年の顔つきに非常に違いがあるということである。それは特攻兵士の顔の方にはまじめさと意志の強固さと不撓不屈の精神が張っているのが感じられるんのに対して、現代の青年の顔にはあか抜けしたスマートさはみられるが、ひ弱さを感得せざるをえないということである。どうしてこのような差がみられるのであろうか。それは戦時と平時における青年達の心構えの違いによるものだといえるのではないだろうか。つまり生命というものに対する考え方の違いによるものだということができる。
日本は250万の将兵の命と引き替えに平和を手に入れることができたのであり、そのことによって今日の日本人は己の生命を危機に臆することもなく、平和を享受し、豊かな生活を送ることができるようになったのである。ところが平和の美酒に酔いしれているあいだに平和と戦争が表裏一体であることが忘れ去られ、平和は日本人にとって絶対的な理念になりおおせ、学校では平和教育が教育の柱となり、国家にとっても平和というものは最も大切なものであると考えられるようになった。
そして戦争がなく、平和でありさえすればすべてよしという考えが人々の心に浸透し、平和を実現するためにはいかなることをすればいいか、また平和が脅かされたならばいかなることをしなければならないのかということは一顧だにされなくなってしまった。いやそんなことを考えることこそが平和に抵触することであり、ただ単に平和を念仏のように唱えておりさえすれば戦争は起こらず平和は実現されるのだと考えられるようになってしまったのである。
平和を実現するために戦争すら辞さないなどということは、自己矛盾も甚だしく、生命を大切にすることことこそが最も大切なことだと考えられるようになったのであるが、戦後の平和主義はこの生命尊重主義と固く結びついて日本人の理念となってしまった。まさに日本では生命は地球よりも重しということが、平和を実現するために不可欠なものだと考えられるようになったのである。それゆえ学校においても平和教育と共に生命尊重の教育が最も重んじられるようになったのである。
生命さえあればいいのであり、その生命を守ることが人間にとって一番大切なことであると考えられるようになった。しかし、その大切な生命が何のためにあるのかということはなんら問われることもなく、生命そのものに価値があり、生命そのものが目的とされるようになったのである。その意味するところは、人間の生命も犬猫も区別がないということであろうか。
確かに仏教などの生命平等観にたてば、人間の生命も犬猫の生命も同じであるといえようが、現実の世界においては決して同じだということはできないであろう。たとえ人間の生命と犬猫の生命が同じ価値を持つとしても、人間の生命が尊いのは、人間は絶対的価値のために己の生命を用いることができるからではないのか。つまり生命そのものが尊いのではなく、絶対的価値が尊いのであり、生命は目的ではなく、手段であって、人間は己の生命を手段として用い、絶対的価値を実現しようとするからこそ尊いのであるというべきはないだろうか。
現代の青年はあか抜けていて、スマートであるといったが、それは彼らが生物として栄養を十分に取り、文明の恩恵に浴し、生命を躍動させているからであって、彼らが絶対的価値を実現しようと努力した結果によるものではない。彼らは自らの生命を何の為に用いるかということを問いはしない。すなわち、絶対的な価値を追求するために己の生命を用いているのはないのである。現代の青年はただ単に生きているだけに過ぎないと言えば言い過ぎであると思われようが、この生き方こそが彼らの顔に表れているのでないか。
生命はより高い価値のために用いるのであって、その為には時には大切な生命を捨てばならないこともあるのである。むしろ、この高い価値のために己の生命を捨てる覚悟を持った時、生命は美しく光輝くのではないか。
特攻兵士たちは、決して喜んで死んで行ったのではないのであろう。国や政府を恨んで死んで行った者もいたであろう。犬死にだと分かって飛び立って行った者もいたであろう。しかし、多くの者は国のため、妻や子のため、己の生命を犠牲にして死んで行ったのではないか。記念館に残る彼らの手紙には、繰り言は一切なく、かならず敵艦を轟沈してみせるという意気込みとともに、生命などは惜しくない、己の生命を犠牲にして国に奉公するのだという覚悟のほどが力強い筆致で書き記されているのである。
このような心意気、自己の生命を捨てて国のために尽くすという覚悟、そのような考え方、生き方が彼らの表情に表れ、かくも凛々しく、美しく清々しい表情となって表されているのではないか。戦争という者はあってはならない。戦争は悲劇をもたらす。
しかし平和の中で生きる人間が好ましい生き方をしているといえるだろうか。非行や犯罪の記事が1日たりとも載らなかった日がないといわれる今日、現代人の生き方をよしとし、特攻兵士が若くして死んでいったことを犬死にでばかなことをしたと誰が言うことができるだろうか。むしろ評論家の福田和也氏が現代人を評して、「救いようがなく醜さに絶えられない。」と言っているように、現代人は決してよりよく生きているとはいえないであろう。それに比べて特攻兵士たちはたった20年そこそこしか生きなかったかもしれないが、彼らの方がよりよく生き、またより充実した人生を送ったのでないと思わざるを得ないのである。
春休みとあって、老若男女多くの人が記念館を訪れ、熱心に展示の写真や遺品を見て回っている老夫婦もいた。ところが実物の戦闘機飛燕の前に立った私の頭を、「この記念館を訪れた人はどのような思いで展示をみているのだろうか」という疑問がよぎった。「私の思いと彼らの思いとは同じであろうか。年とった人、若い人は同じ思いを抱いているのだろうか。特攻兵士への同情と共感のようなものを抱いてくれればいいのだが」と思いつつ、最後の展示室に入ったのであるが、「おや、この記念館の目的とするものはいったい何なのだろうか」と首を傾げざるをなくなるような光景を目にした。
その光景というのは、部屋の壁いっぱい飾られた千羽鶴の束であった。千羽鶴を見て、ただちに思い出したのは広島の原爆ドーム前の千羽鶴であった。千羽鶴は平和の象徴である。となるとこの記念館も、実は平和教育のためのモニュメントではないのか。急にそんな疑問が湧いてきた。この千羽鶴の意味することろは「こんな若い兵士が国のために死んで、実はかわいそうだ。こんな悲劇が2度と再び起こらぬように、戦後世代の人間は平和を願い、平和を祈ろう」というものであろう。つまり、これは広島の「2度と過ちは繰り返しません」という反省の言葉につながるものである。
特攻として散って行った1000人あまりの将兵に対して憐れみの情と同情を禁じ得ないのはもちろんのことであるが、それと同時に彼らの行為に対して「あなたがたのおかげで日本はこんな豊かな国になったのだ」という感謝と顕彰をこそ表明することが必要であり、また悠々の大義のために殉じた人間に対しては、「これこそ武士の魂、汝こそは日本男児だ」という賛辞を呈し、自分自身に対しては「祖国が存亡の危機に立ち至ったならば、己も彼らと同じことができるのか」と自問してみる謙虚さを持つことが必要でないだろうか。そうすることによってこそ、彼らの霊を慰めることができるのではないか。彼らの残したどの絶筆にも、「立派に手柄を立てて死んで見せます。」という言葉がみられる。彼らの熱き思いは、単なる平和への希望ではない。彼らは敵の殲滅をこそ誓って出陣していったのである。ところが彼らの願いは空しく潰え、日本は敗れてしまった。
後世の者は、彼らの願いを継承し、尚武の心をもつことによってこそ、彼らの願いを現実のものとすることができると考えるべきではなかろうか。もちろん、再びアメリカを敵として戦争せよなどということを私は言おうとしているのではない。彼らが生命をかけて守ろうとしたこの日本に、後世の者がただ平和と豊かさだけを求め、諸外国の悔りを受けても意に介さず、自尊心も、矜持もなく暮らすことで満足していることが、果たして特攻兵士の心に添うことになるのかという疑問をなげかけているだけである。
平和を祈念して折られた千羽鶴が、果たして特攻兵士の気持ちに応えたものといえるものであろうか。千羽鶴が象徴する平和主義を理念としてこの特攻記念館が建てられたとするなら、その主旨は沖縄の空に散った人々の意志とは大きく異なっているのではないとかと思われる。もちろん、彼らとて平和を願っていなかったわけではない。しかし、彼らの考える平和と今日の人々が考える平和とでは著しく異なっているのではないか。こんな私の疑問が単なる私の老婆心によるものであってくれれがいいと思うのであるが。
民族戦線70号より
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