加藤紘一、外道伝 堀米同志の加藤邸焼き討ち義挙をきっかけに、今まで表に出る事の無かった加藤紘一に関する様々な情報が再び語られるようになってきた。 今回寄せられたものは、加藤紘一と親戚であるU氏の親友であったT氏より寄稿されたものであり、取材の際にも様々なエピソードを語ってくれた。 又、本稿とは直接の関係はないが、裁判記録の傍聴手記で少し触れた呉剣琴(故人)に関する情報もその後の追跡調査でいくつかの事がわかってきた。彼は中国対外連絡部(スパイの元締)の関係者で、江沢民時代には人民解放軍の特別来賓資格を持ち、深夜に江沢民の寝室に直接電話を掛けられる立場であった。その他にも香港との強いパイプがあり、香港の経済界をはじめ裏社会にも顔が利いていたようだ。彼が会長を務めていた正和航業は「COSCO」の総代理店との話もある。 今回の取材では、「加藤の乱」の裏事情が呉剣琴と密接に繋がっていた可能性を窺わせる証言も得る事ができた。 ******************************************************************************************************* 亡きK・U君の思い出 Y・T 今から思えば、不思議なものでまったく性格も生まれ育った環境も違うにもかかわらず初めてU君と知り合ってから中国留学中、卒業後、彼が平成16年5月5日に鶴岡の実家で亡くなるまで一度も喧嘩もせず付き合いが続きました。 初めて知り合ったのは、昭和57年8月下旬、当時大阪の豊中市にあった中国総領事館で9月からの入学を前に留学生の壮行会の席上隣に座ったのが縁の始まりでした。なぜ、鶴岡出身で東北学院大学を卒業した彼がこんなところにいたのでしょうか。この当時、私は、桃山学院大学で社会学部に在籍しており中国と公式の学歴の上では全く関係の無い所から公費留学生になろうと活動していました。日中友好協会や文部省の試験を受けたもののすべて落ちてしまいました。色々、ルートを探しているとき大阪外国語大学で客員教授であった北京師範大学の孫鈞政教授と知り合い大阪総領事館の曲則生領事を紹介してもらい自費留学の手続きをしてもらうことになりました。U君も同じような理由で、衆議院議員の加藤紘一さんの紹介で大阪総領事館の曲領事に留学の手続きをしてもらいました。 最近明るみになった、中国共産党による日本解放計画によれば、日中国交回復後の対日文化工作の一環として中国語教育の普及を隠れ蓑に語学教師を日本に送り込み、中共シンパの日本人を養成し、希望者を本国に連れて帰るという計画に自分もU君も乗ってしまっていたのではないかと思うようになりました。 さて、曲領事ですが、もともと上海の同済大学の副教授をされており日本語がとても流暢な人でした。高層建築の専門家でしたので上海のような沖積平野で地盤がとても軟弱な所でどうすればちゃんとしたビルが建つのか私も興味がありましたので、領事の任期が終わられた後、昭和58年秋頃、上海で何度かお話を聞きにU君と隣の大学へ伺ったものです。 この当時、加藤代議士は、将来の首相候補との呼び声も高く活躍されていたころです。U君の話によれば、このころより中国の上海閥との関係が強く、東京にある中国大使館で留学の世話をしてもらうことも可能であったし、また文部省の公費留学生にもぐりこむことも可能であったけれども、やはり人の目もあることなのでわざわざ大阪で手続きを行なったと話してくれました。このような話をするようになった直接のきっかけは、運転免許証の外国免許への書き換えを日本と中国で1回ずつすれば、もともとなかった自動二輪車の免許証が労せずして入手できたということを教学旅行の夜汽車の中で話したからです。U君と世の中には、裏も表も盲点があるものだなあと朝まで話に熱中したのもよく覚えています。 中国が改革開放政策を採り始めた頃でしたが、社会の各分野で、在留外国人に対しての監視、嫌がらせがひどくさまざまの不条理がまかり通る非常に住みづらいところでした。これを何とかするため、U君は、加藤代議士に日本の上海総領事館あてに紹介状を書いてもらい総領事館付属の日本語補習校の臨時教員を始めました。私は、現地の高級幹部の子弟と友達になり、その家族の世話になっていたので自分の身には特に何も起こりませんでした。この頃の上海では、特に困っていたのは、大学内の食べ物が日本人にとって全く食べられる状態ではなかったため外食するか、それとも自炊するしかなかったのでよく料理を作りU君と分けて食べていました。その後、中国人の友達にも聞いたところやはり食べられたものではなかったようです。 昭和60年に、U君が先に帰国し加藤代議士の世話で富士経済に就職、その後、転職してユニデンに入社して、千葉県の市川での勤務の後、台湾の高雄、フィリピン、中国深センと海外勤務を続けました。 平成2年に、私も就職のため上京し、東京で部屋を借りる際に部屋探しを手伝ってもらったり、保証人になってもらったりしました。留学中一緒にご飯を食べたことを随分恩義に感じていたようです。 さて、平成4年、彼はユニデンで社内恋愛の末、今の奥さんと結婚しました。白金台にある八芳園での結婚式の当日、加藤代議士も出席の予定でしたが、急用のため予定が取り消しになったことを覚えています。 結婚式の直後から、彼は、中国深センでの単身赴任の生活を始めました。平成6年になり、私も、職を転々とした末、中国深センにある別の小さな会社に勤めましたので、またもや現地で一緒に飲みに行ったりする付き合いが始まりました。この時、この男とは一生腐れ縁かもしれないと思ったものです。平成7年に私の父が亡くなり、私は、海外での活動を止めましたが、彼は、体調を崩す平成14年頃まで中国深センにいました。体調を崩してから東京の自宅で療養生活を始めましたが、長年別居生活が続いた影響で夫婦関係も冷え切ってしまい、その後、止むを得ず鶴岡の実家で療養を送っていましたが、平成16年5月5日に亡くなりました。鶴岡に帰ったと聞いた時は、会社を辞めて加藤代議士の下で政治の勉強でもするのだろうと軽く考えていましたが、原因不明の難病に罹り死んでしまいました。なんら病原菌が検出されず原因不明とされましたが、恐らくツツガムシなどの寄生虫でこうなったと私は、考えています。 彼の一生を、振り返ると国策なき対中国外交の犠牲者であったと断言できると思います。 *編集部より Y・T氏より寄稿いただいたものは全て実名であり、当時の写真も数枚いただきましたが編集部の判断によりイニシャル表記とし写真の掲載は見送りました。 下記は寄稿いただいた際の取材での証言を箇条書きにしたものです。 ◆U氏は、加藤紘一の指示で「上海師範大学」で中国語教師の資格を得て帰国し、「親中派」育成の為の語学戦略を担うことになっていた。 ◆東京での公費留学申請や、大使館特別許可の公費留学申請をすると、「加藤紘一の親戚だから」と問題になるので、わぎわぎ大阪で公費留学申請させられた。 ◆加藤紘一がU氏の留学手続きをさせた大阪領事館の曲領事は、上海に高層ビルを建設するための資料やデータを収集する係だった。曲領事が帰国してから、上海同済大学を中心に高層ビル計画が進められた。 ◆加藤紘一と親しい関係の「北京師範大学」の孫教授は、対外連絡部のメンバー。昭和57年頃には大阪外国語大学の客員教授で、それから北京師範大学に一度戻り、平成14年頃には関西外国語大学の客員教授で日本に舞い戻っていた。「言語を通じて中国文化に親しむ」という名の文化戦略担当。 ◆加藤紘一の指示でU氏は帰国後は東京に住み、様々な指示を直接受けていたらしい。 ◆加藤紘一からの指示で、U氏は「朝日新聞北京支局の加藤千洋」(今ではテレビ朝日の報道ステーションのコメンテーター)と仲良くするように言われていた。T氏も一緒に、よく朝日支局の加藤を訪ねたことがある。「親戚かな?」と思っていたそうだ。彼は外交官官舎にオフィスを構えていた。 ◆U氏はイイトコの子(父は学校教師、母はピアノ教師)で精神的に脆い所があったので、加藤紘一としては利用価値・利用目的の変更に迫られたようで、当初の中国語教師で語学戦略に使うことから、企業に入れる方向になったようだ。 ◆この頃から(ユニデン勤務中)U氏と加藤は距離ができ始めたようだ。 ◆U氏は「生煮えの巻き貝」が大好物で、それによってツツガムシに感染した可能性がある。 ◆U氏が病気になり、現地の病院では原因不明で治療不可能ということで帰国したが、加藤は東京の一流病院を紹介してくれなかった。しかたなく鶴岡に戻って「日赤病院」に入院したが、加藤は世話をしてくれなかった。通夜にも葬式にも、加藤は顔を出さなかった。 ◆U氏は帰国した頃は、腹に水が溜まって異常な状態だった。この平成14年頃から加藤紘一はU氏のSOSに一度も応じてくれなかった。死んだ後も、知らん顔である。U氏と加藤の関係を知っている者は、全員が加藤に対して激怒している。 番外ではあるが、上海師範大学はスパイ養成の拠点だった。同期に「金丸信」の親戚と称する「金丸信三」という学生がいた。部屋に小型コピー機を置いて書類を片っ端からコピーしていたのが、北朝鮮スパイだと認定されて退学させられた。という逸話まで飛び出してきた。取材の過程であまり知られていない中国留学の実態が聞けて面白い取材であった。 最後にはなりましたが、取材に快く応じ寄稿文までいただいたY・T氏に、ここで改めて御礼を申し上げますと同時にU氏のご冥福を祈ります。 |