『自治基本条例』の罠 危険な第二のジェンダー運動 自治基本条例とは 法政大学名誉教授「松下圭一」が平成6年、「北海道先駆自治体研究会」において『今後、日本の自治体は憲法8章地方自治を踏まえ、独自の基本条例を自治体レベルの基本法として策定して行くことになる。この基本条例は、長期・総合の自治体計画の基本となると共に、国法の運用を含む政策法務の自治体基準となる。自治基本条例について自治体計画は、国法の運用基準として自治体レベルでは国法の上位基準となる』と提案したことから始まり、北海道ニセコ町が直後に全国初の制定をした。 自治基本条例のモデルは、昭和48年に神奈川県川崎市議会で提案された「川崎市都市憲章」である。革新系市長だった「伊藤三郎」が、平和的生存権や市民主権を基本理念に制定を進めたが、保守系議員の徹底的な抵抗によって否決・廃案になった。同じく革新系市長だった神奈川県逗子市も議会提案したが、同じく保守系議員の抵抗により、市長交代と同時に廃案になった。 松下圭一を中心とする左翼学識経験者たちは、神奈川県での流れを受けて全国展開を狙っていた。そこに、国の「地方分割一括法」が制定され、全国市区町村に独自条例制定の動きが始まる。 「松下圭一」の「市民自治の憲法理論」の前文には、『憲法は国家のものか、市民のものか、今日の市民運動の昂進は、市民こそが憲法理論を作る主体であることを認識させつつある。市民自治から発する文節政治システムと、基本的人権を核とした国民の政府への機構信託を構想することにより、国民主権の発動を目標とする憲法理論の再構築を提案する』と書かれており、立法府である議会および議会制民主主義を否定し、市民制民主主義(全体主義)を提唱する。 「デモクラシー」(民衆支配)を目指して、「松下圭一」は市民≠ニいう言葉をプロレタリアート≠ニ同義語で使用している。フランス革命における共産主義政治用語である「市民」は、「国民」に対峙する言葉として使われる。 左翼の言う「市民の定義」とは 「住民の最上位に市民≠掲げ、市民≠市内に住む者、市内で働き学ぶ者、および市内で活動する個人または団体と規定する」これは共産主義思想である。「住民の上に市民がある」とは何か?「市民」が共産主義思想で言う所の「プロレタリアート」を指している証拠である。 「松下圭一」の言うように、「市民こそ憲法理論を作る主体」ならば、住民とは無関係の「市民と称する第三者」(個人も団体も)が自治体を支配する「利益当事者」であることになる。「住民・市内在学者・市内在勤者」はどのような者か理解できるが、「市内で活動する個人・団体」とは何者か理解できない。それが不法残留外国人の場合にも、左翼の定義を援用すれば「市民」になる。つまり、「悪意ある第三者」や「積極的犯罪者」で「国民の義務」を一切果たしていない「住民でもない者」でも、彼らの理論では「市民」になれる。 共産主義革命を今でも夢想し信奉する者は、1990年代以降は『地球市民』という言葉を好んで使用する。(ピースボートの広告・ジェンダーフリーの啓発・9条の会の案内を見れば一目瞭然である) 市民の権利とは 「市民は、自治体の不利益になろうと住民の不利益になろうと、市民の意志は尊重され排除されることはない」という言い回しを使う。自治体においての一切の義務を果たさない者でも、(保障・保護・補助など)住民であるか否かに拘わらず市民≠ネら取り放題。つまり「市民」という名の「自治体破壊者」である。 「松下圭一」は岩波新書「市民自治の憲法理論」の中で、『国民主権は市民自治に基づいて、日常に批判と参画を巡って発動されなければならない。それが国民レベル、自治体レベル、国レベルにわたる市民による憲法構造の変革の意義に他ならない。市民が憲法原理に基づく憲法構造の改革の主体であることは、まさに憲法制定権力の日常発動ということができる。これが国民主権の市民主権化≠ニいう視覚である』と述べている。 「子供の権利」を「市民の権利」と同等に置いている 『全国的に見て、少子化が著しいことに鑑み、未成年者の権利においても特に項目を設ける』ことを謳い、「子供の権利に関する条例」を重ね合わせる。子供を放埓・横着・無秩序・野放図・無責任に放任することを奨励する試みは、何が狙いなのか誰でも分かる。自治体破壊→国家破壊→社会破壊→伝統文化破壊→日本人破壊という図式が、子供を時限爆弾に利用した戦術として見えてくる。 市民の義務と責務について 「権利の行使に対しては、責務を伴う」と言う表現で、「権利←→義務」と言う言葉を意図的に避けている。ところが、自治体(法人)に対しては「義務」ばかりを求めているのも特徴である。「市民」は権利をいくら行使しても「責務」だけしか求められず、権利行使に対する「義務」は求められない。しかし自治体は、「市民」に対しての「義務」ばかりを負わされる。理由は簡単である、「住民の税金などの義務によって支えられている自治体を、市民が食い潰すことが目的の共産主義革命理論」だからである。 市民参加の保障について 「市長などは、市民の意見が行政に反映されると共に、参加の機会が保障されるように、多様な参加制度を整備する義務を負う。また市長などは、参加できない市民が不利益を受けないように特段の配慮をしなければならない」−−繰り返し言うが、「市民」と「住民」は別である。前述の通り、訳の分からない「市民」と称する得体の知れない個人・団体に、「特段の配慮」が何故必要なのか。参加する自由と権利が保障された上に、不参加であっても不利益を受けないということは、「市民」と称する者だけに「参加・不参加」の区別なく「特段の配慮」を最初から自治体(および市長に)保障させていることになる。行政コストや職員人件費を見る時に、その職員の中に「市民」と称する者が紛れ込んでいた場合の恐ろしさに慄然とする。 今、自治体に何が起ころうとしているのか 「ジェンダーフリー」運動(男女共同参画運動と言い換えた自治体も多い)では、東大の「上野千鶴子」教授や「大沢真理」教授の理論が背骨として目一杯利用された。いかに形を変えても、骨子である「上野理論・大沢理論」がベースとなっていた。 今、全国の自治体では(東京都区議会で2年前に観測気球を上げた)、法政大学「松下圭一」名誉教授の理論をベースにした『自治基本条例』案が、左翼の強い自治体当局(市長)から議会に提案される動きが出ている。しかし、ジェンダーフリー運動同様、多くの議会議員は勉強不足で意味すら理解していない。 ルソーが「共産主義革命の主体」と考え、レーニンが「国家体制を破壊する主体」と考えた『市民』という『国民とも住民とも違う立場の人間』を、『自治基本条例』では、議会議員に気づかれないよう注意を払って「主役」にしている。 「松下圭一」理論では、この『自治基本条例』を推進する機関として「市民および学識経験者によって自治推進機関を設置する。自治推進機関は、条例の改正、自治推進に関する重要事項について市長に提言する」と、「議会に代わる権限を持つ市民=vを作り上げようとする。そして「住民投票」は「市民の権利」であり、それは「未成年の市民」も参加する自由と権利を持ち、不参加の場合の不利益は受けない。しかも、義務は何一つ存在しない。「市民」が「住民投票」を発議すれば、自動的に「市民」の利益となる住民投票が始まるのである。 これを少し変化させた方法で、「委員会」を設置し「専門委員」を任命して議会と同等の権利を持たせたり、「評議会」を設置し「学識経験者」を「評議員」にして市長への提言権を与えたりする恐れもある。 『自治基本条例』への動きは、早急に厳重に注意する必要がある。 結論 国家破壊・共産革命を目的とするジェンダーフリー運動は男女共同参画運動と名前を変えて反日勢力に完全にしてやられた。我々は子孫にこの美しい祖國を遺す為にも、古き良き時代の日本(個人の理想形)を頭に思い描き、「良い慣習を維持し、悪い慣習を排除し、足らざる慣習を設ける」ことを真剣に考える必要がある。 |