歴史に学び中共の謀略に備える
謀略工作員との戦いを学ぶ

 村上 学


 最近「日本の誇り」というシリーズが発刊され、創刊号は「織田信長の国家戦略−ポルトガル・スペインの侵略をいかに阻止したか」というものである。また月刊世界思想八月号では「戦後六〇年」の特集があり、その中ではゾルゲ事件に代表されるソ連コミンテルンの国家謀略が詳細に分析されている。この両誌を参考に、今後、謀略工件員といかに戦って国を守るかを考えていきたい。

 まず織田信長がポルトガル・スペインの地球二分割から日本を救った実例では、歴史的な背景を知る必要がある。
 イベリア半島をイスラム教に奪われたキリスト教は、711年にレコンキスタ(失地回復)運動を展開する。そして1096年になり、ローマ教皇の命令でキリスト十字軍が編成される。当時オスマン・トルコが地中海、紅海、ペルシャ湾、インド洋などの海洋ルートを支配していたため、ポルトガルは北アフリカを攻め落とし、そしてアフリカ大陸を回ってインドに至るルートを開拓する。スペインは「地球は丸いから西回りでもアジアに至る」と言うコロンブスを支援して、到達したアメリカ大陸を武力支配する。マヤ、アステカ、インカなどの先住文明を滅ぼし、原住民を皆殺しにしたため奴隷が不足し、アフリカから黒人をアメリカに運んだ。
 ポルトガルはローマ教皇にスペインの無法を陳情し、ブラジルを割譲される。そこから東回りのポルトガルと西回りのスペインは、東経135度で地球が二分割できるとして日本の争奪戦を繰り広げる。
 ポルトガルは日本攻略の工作員として、キリスト教宣教師を派遣する。彼らはまず日本の上層階級である大名や領主に接近し、ポルトガル王の親書や贈り物を進呈して友好関係を作り、領内でのカトリック布教の許可を得て拠点を作る。さらにポルトガル商人との交易関係を宣教師が仲介、その利益を布教強化資金にし、大名たちに科学文明を教えて屈服させて洗礼を受けさせるという戦術を進める。
 こうして大村純忠や大友宗麟などのキリシタン大名が九州に続々と誕生し、その領地の一部を教会に献納する動きが出る。つまりポルトガルの間接支配地が九州に誕生したのである。
 この頃、織田信長は宣教師から知識だけを吸収するために接触するが、交易流通自由化の「楽市楽座」と安土城の建設によって最大勢力の武将となり、巨万の富で三千挺の新型鉄砲を持つ専従戦闘隊を設立したことや、石山本願寺との戦争で大砲を備えた鋼鉄の戦艦三隻を造ったことなどを間近に宣教師に見せ、また全国の武将が馬に乗って天皇の前に勢揃いする儀式を開催して宣教師らの度胆を抜いた。
 宣教師は九州に支配地を作って信者を増やし、神社仏閣を焼き僧侶神主を殺害して植民地化を図っていたが、織田信長の訓練整備された近代軍隊や統率の取れた武将連合を見せつけられ、「日本国民は非常に勇敢で絶えず軍事訓練を積んでおり征服は不可能」と結論せざるを得なくなる。織田信長はポルトガル・スペインと一度も戦うことなく、その防衛力の質と量や兵士の練度の高さを見せつけることにより侵略の意図を挫いたのである。これこそが「専守防衛」の基本である。
 宣教師という謀略工作員を逆利用し、優遇しながらも脅威と恐怖を植え付けたのである。この織田信長の「防衛者」としての戦略が日本を守ったが、一方で宣教師に丸め込まれてキリシタン大名となった九州の領主たちは、一歩間違えれば日本を滅ぼしていたことになる。

 次に近代のソ連コミンテルンの国際謀略についてであるが、これは1919年にレーニンによって「世界共産化」のためにコミンテルンが創設され、その後継者スターリンが1935年の第七回コミンテルン大会で決定した「人民戦線戦術」により、対立と矛盾によって世界を混乱させて消耗する戦争に突入させるという戦略に突き進む。
 スターリンは中国共産党に対して「国民党と抗日統一戦線を作り、大陸の泥沼に日本軍を引き込んで消耗させよ」と指示。ドイツ人ジャーナリストで赤軍のゾルゲには、「日本とアメリカを戦争させろ」と指示。ゾルゲは部下の朝日新聞記者・尾崎秀実を近衛文麿首相側近に送り込み、「政府と軍部を南進論に転換させろ」と指示した。
 ゾルゲはまた、駐日ドイツ大使オットーの妻の愛人になり、日本とドイツの情報を混乱させて関東軍をノモンハン事件に突入させる。
 尾崎は陸軍に統制派と皇道派があって対立していることを利用し、近衛首相が戦争不拡大方針をとらないよう大陸に「親日派傀儡政権」を樹立させて内戦誘導し、蒋介石の顧問にはアメリカ共産党のオーエン・ラティモアを張り付けさせた。大陸の内戦と国共合作によって、日本軍は大陸から抜け出せなくなり、戦線はどんどん拡大してゆく。
 大陸を抜け出せないまま、尾崎が近衛首相周辺に言わせた「欧米列強に搾取抑圧されるアジア同胞を解放せよ」という大東亜共栄圏構想や、「国家社会主義と天皇国体は両立する」という欧米資本主義と戦うのが天皇国の使命であるとのレトリックは、まんまと軍部に採用される。
 この尾崎秀美がゾルゲの部下となってコミンテルン情報局員となった経緯は、台湾育ちで帝国大学を卒業し東京朝日新聞に入社した尾崎が上海特派員となった時、上海でアメリカ人記者のアグネス・スメドレーと愛人関係になるが、そのアメリカ共産党員アグネス・スメドレーからゾルゲを紹介され、コミンテルンに組み込まれたというから驚く。
 日米開戦と同時に、「最初の一年間は日本優勢だが、三年後にはアメリカが完全勝利する」との分析結果がアメリカ政府では出ており、アルジャー・ヒスやオーエン・ラティモアなどの共産党員に担がれたフランクリン・ルーズベルト大統領は突っ走ることになる。
 戦後の日本では、戦略情報が撒き散らされた。
 例えば「京都に原爆を落として日本文化を完全に破壊する方針だったが、ウォーナ一博士が大統領に対して、「世界最高の宝である京都を破壊してはならないと説得して方針転換させた」という嘘。軍需関連都市で人口密集地を狙った原爆投下の優先順位は、そもそも京都は低かった。しかし、全国の候補地に事前に投下した模擬原爆の事実を隠したい米政府は「京都の恩人」をでっち上げたのである。
 また「天皇制廃止」にならなかったのは親日派のグルーとライシャワーの活躍とされているが、実は唯一の強硬派ラティモアが偶然、蒋介石の顧問として大陸に居たのが幸いしたにすぎない。
 さて日本に招待で観光旅行に来たアインシュタイン博士が、帰国後に事務所から郵送させたタイプ打ちのお礼の手紙に書かれていた「私は神に感謝する、この地上に日本という国を作っておいてくれたことを」という社交辞令を利用して、アインシュタインは日本を最も愛した科学者であるというレトリックも同様である。マンハッタン計画の中心人物であるオッペンハイマーとアインシュタインが連名でサインした大統領宛の親書には、「世界地図からドイツと日本を消し去るために」との理由で原爆開発が進められたことがしっかりと書かれている。その開発された原爆の点火方法(十二極×十二極の同時点火)は、実験後ソ連に流された。
 わずか一週間で作成された日本国憲法に至っては、実は事前に日米の共産党が作成していた「憲法草案要綱」を下敷きに準備万端だった代物。

 「覇権主義者」と「共産主義者」の侵略方法や謀略手段は類似しており、その上に「失敗するまで同じ方法を繰り返す」特徴がある。
 現在では、政治的・経済的・文化的・軍事的に侵略や謀略が繰り返される。それが亡国の原因になったり、また戦争の端緒になったりする。日本社会が直面している侵略と謀略の「覇権主義」「共産主義」の魔手は、紛れも無く中共のものである。すでに国内には、第二のゾルゲや尾崎が政府中枢や軍人OB社会にまで浸透し、愛国者の陣営をも跋扈している。日本に防諜法がないから当然だが、謀略工作員は堂々と協力者を育成している。
 いずれ日本と中共の間で、あるいは日本・アメリカと中共の間で険悪な状況が発生するだろうが、我々は歴史に何を学んで、どのような行動ができるのだろうか。「未来の青写真は歴史の中にある」と謙虚に学びたいものである。