忠誠の系譜について
和気公-大楠公-松陰烈士

酒井利行 


本文は平成四年一月三十日に、本誌に対して特別にお話しされたものの要約です。

 わが國史上第一番に御登場願わねばならぬのは矢張り山田石川麻呂公ではないか。大化改新の功労者であり乍ら、あらぬ冤罪により一方的に攻め立てられる。それに対し一言の抗弁もなく「生々世々君王(天皇)を怨まず」との遺誓のもと一族と共に自刃し果てる。
 が、私が今迄の生涯で最も身近な御存在が和気公・大楠公・松陰烈士御三方であるので、この線に治って卑見をのべさせて頂く。
 と云うのは、私事に亘るが、和気公には二十五年、大楠公には現在迄に十年、生ける御神霊の膝下日夜御奉仕の栄に預った。又松陰烈士には終戦直後思い決する所あり、特に東京世田谷の松陰神社御本殿真裏に下宿を求め、約一年半程神職ではないが、謂わば草莽布衣の一祀官の心積りで毎朝夕神前に拝跪些か祈念をこめた。
 さて和気公・大楠公・松陰烈士の御三柱が大体五百五十年間隔で次々と生れ変って来られた様に思えてならぬ。
 先ず、和気公・大楠公について述べ、その大先達二者より綜合的に受容転生を遂げられた稀有の存在松陰烈士については最後のまとめとしたい。
 和気公・大楠公の史上に於ける酷似点を挙げるとすれば、六点程ある。
 第一は、二公何れも祖國非常の機、天皇の霊夢により召出されていること。
 第二は、その時の決意を披瀝しての奉答振り。
 第三は、それ以降の生涯の忠誠振り。
 第四は、最期の絶命遺誓の辞。
 第五に、子孫一統の祖志継承。
 最後に、現在に於ける宮闕奉護の姿態。

 第一、妖僧道鏡、女帝称徳天皇の御寵愛に乗じて禅師・太政大臣はおろか法王なる「極位」にまで登り横暴の限りをつくす。遂には宇佐八幡宮の偽詫にかこつけて皇位の簒奪を迫る。
 さすがの女帝も萬世一系の皇位を臣下に譲るは前代未聞のこととて大いに宸襟悩ませられ、挙句の果て陛下の夢枕に宇佐の使神なる姿が現れ未明を待ちかねて和気清麻呂召し出される運びとなる。
 廷臣としては従五位ノ下、昇殿もままならぬ謂わば道鏡にとっては無名の存在である。直ちに宇佐に出向き神託の真偽を篤と伺ってこいとの勅命を蒙ったのが時に三十七才。(神護景雲三年-769年)
一方、大楠公の場合は、有志御承知の通り、忝くも一天萬乗の大君たる後醍醐天皇、北条軍に追い立てられる様に急拠あの笠置山に御遷幸、へとへとに疲れきられた翌日のうたた寝の夢にはっとめざめて、その南庭の状景を占われ急拠赤坂の里なる楠木正成に勅諚を伝えさせられる。
 「弓矢取る身の面目何事かこれに過ぎん」とて韋駄天の如く笠置山頂へと馳せ参ずる。原典太平記の劇的な場面だ。(元弘元年-1331年)時に三十八才の一兵衛の身。

 第二、お召しを受けてのその時の闕下奉答振りはどうか。前者の和気公については何れの文献に徴してもその言が出てこない。が必ずや決意の程を畏こまって言上されている筈だ。
 幕末風雲急を告げる嘉永四年、孝明天皇の格別の思召により正一位護王大明神なる神階神号が京の洛西高雄山神護寺境域に祀る「和気公霊廟」宛、宣下された。
 その神護寺の寺宝に「我独慙
天地」なる版木があり、まぎれもなく和気公の真筆によるものとされている。(現在は旧別格官幣社護王神社社宝として移管)
 恐らくこの様な意味の言上があったのではないか。我れ独り天地に慙(ハ)ずとは如何にも消極的に受取られ勝ちだがそうではあるまい。
 弓削道鏡をのさばらせ、遂に皇位簒奪せんとの大逆に到らしめたのは一 (イツ)にかかって不肖私の常々の忠勤の至らなさにございます。勿論当の本人たる道鏡も悪いが、それよりも何よりも私の力不足の責任です。どうぞ天地(八百萬神々)よ私をとがめて下さい。ただ皇國の命運まさに宇佐八幡の二言にかかって居りますれば、私如き微官乍ら必死一人(イチニン)以って重責を果させて頂きます。どうぞ大御心安けく私の帰参復奏の時をお待ち下さい。
 「我独慙天地」の反語としてこの様に言及もされよう。
 次に大楠公の場合、之れ亦太平記の圧巻とてどなたも口ずさんで居られる様に「正成一人(イチニン)未だ生きて有りと聞召し候わば、聖運遂に開かるべしと思召し候え」。如何に大御心を安んじ奉ったか往時を推察して余りある。

 第三、両公生涯を賭けての忠誠振り。和気公は見事重責を果され、道鏡失墜後の特に行政面での恬目すべき業績の数々。人心の抜本塞源的壮大なる意図による奈良より京都への遷都への進言と造宮太夫として現在の京都をして王城千年の礎を築かれたこと。
 更には都市仏教の弊(道鏡如きを輩出せしめる余地あり)を革め、都の周辺に王城鎮護の聖使命を持たせての山岳仏教化、宮廷大学の南辺の自邸を全面開放して図書館を兼ねての教学刷新の場としての弘文院の創設。(その後藤原氏の勧学院、菅原氏の文章院、橘氏の学館院、弘法大師の綜芸種智院等、続々と官学たる大学に対して私学のブームを呼んだ。和気公の先見の明や大)
 大臣の枢要の地位に居られたから公私に亘り行政文教面に於いての功績は枚挙に憩ない程だ。御英邁なる桓武天皇のもと忠節を抽(ヌキ)んでて「延暦維新」の推進役を全うされた。(延暦十八年帰幽六十六才。)
 正成公、笠置の行在所に土下座烈々たる奉答してより五年間それこそ息つく暇なき許りの純忠至誠の言動の終始、このことは皆さんよく御承知だと思うので今更喋々する迄もなかろう。
 ただ、延元元年二月打出浜の戦で決定的敗北を喫した高氏の残兵、生命からがら九州くんだり迄逃げのびたが、何ものの加勢を得てか百日足らずの間に水陸百万(太平記)の軍勢をとよもして都へと逆襲の報が届く。
 急拠御前にて作戦会議が開かれ、負けて勝つとの正成の深慮遠謀策容れられず、「此上はさのみ異議を申すに及ばず」(太平記) 「正成存命無益なり、最前に命を落すべし」(梅松論)とて僅か数百騎を引き連れ孤影粛々と湊川へと赴く運びとなる。
 勿論、途中桜井の里にて一子正行へ切々と庭訓を垂れて後事を托した条りは「青葉茂れる」の歌唱と共に涙なきを得ない。
 さて決戦前夜たる延元元年五月廿四日湊川の会下山に陣を占めてその足で新田公の陣営を訪れて居られる。
 深夜に及ぶ迄酒を掬み交わし乍ら談義が交わされたが、正成公はどこまでも新田公に一命をかけてもかばうこと、何故なら愈々明日に迎える湊川の合戦はどう考えても勝目はない。だとしたならば源家の嫡流たる新田公を出来れば一戦をも交えさせずして皇軍の虎の子たる二万何がしの軍勢共々都へと引返させること。
 その為に自分が果してどれだけの時間持ちこたえ得るか、貴公をかばいだて出来るか、ともかく高氏兄弟百万の来襲に立ち向う。
 貴公同様源義家を遠祖と仰ぐ源家の棟領株高氏が反逆した以上、天皇が最も頼みと思召されるは貴公以外にない。恥も外聞も一向お構いなく急ぎ御帰洛ありたいと切に申入れるも、義貞これを受けず遂に世紀の決戦たる廿五日の湊川の戦に突入する。大楠公には名利名達如き俗欲はもとより一片の身命をも大義のためには些かも惜しまれない。
 勿論三刻(ミトキ)六時間に亘って阿修羅の白兵戦血戦が十六回も重ねられ、遂に七百の精鋭殆んど屍を曝らして漸くに息絶え絶えの正成公以下一族郎党七十三人梅雨どきの湊川の激流を渉って寺坊に辿りつき、あわれ殉節を全うされた。(延元元年五月廿五日、時に四十三才)まさに一点の私心なき至誠純忠の権化である。

 第四、和気公生命革(アラタ)まれると自覚され、介護の者をして身清めの上朝服に改められ、一族を背後に侍らせてこの様に遺言起誓された。
 「我れ死すとも心神常に王城(皇居)に向い、日夜王城を拝護せん」(護王大神記)
 肉身如き朽つるとも魂魄は永遠、四六時中ただただに皇統無窮、国体護持の霊的大任に永生奉公せん、この様な最期の御遺誓あってこそ、「護王大明神」と仰がれる所以が存する。
 正成公一統集結(現・湊川神社本殿西隣)、やおら楠公兄弟の問答を最後に天晴れ殉節される。「抑最期の一念に依って善悪の生を引くと云えり、九界の間に何か御辺の願いなる」との兄正成公の問いかけに弟正季、最後の気力をふりしぼって「七生まで只同じ人間に生れて朝敵を減ぼさばや」と応える。素晴らしい絶命起誓の辞だ。
 が間髪を入れず正成公声を大にして「罪業深き悪念なれども我も斯様に思う也」と合槌を打たれる。壮絶鬼神をも面そむけさす崇高な場面であり、爾来「七生滅賊」なり「七生報国」なり恰好のキャッチフレーズとして濫用され勝ちだが、この際特に「罪業探き悪念」と迄何故仰言ったか篤と省みることが大切と思う。
 恐らく太平記作者の舞文曲筆でもあろうし、当時の風潮である遠離穢土(オンリエド)・欣求浄土(ゴングジョウド)との仏説になじんでの寂滅為楽(ジャクメツイラク)のはかない思いが反映しておろうが、大楠公は先ずこれを全面否定されたのだ。
 所詮この世は仮の世、自分にとつては一過性の人生だ。が緑あってこの世に生れた以上、仮令仮の世であっても死ぬ迄ベストを尽くす。そうすれば本当の永生の世であるあの世で後生安楽が保証される。
 だから往生際悪く、この後の世に何時迄も未練を残す。「七生」は言葉の綾で七度十度百度千度永遠にということだ。
 そんなすさまじい思いはとんでもない了見違い、仏罰深重だ。仮にせめて一度でもこの仮の世に生れ変り得たとして何をするのか。「朝敵を滅ぼさばや」。とんでもない殺生だ。虫の子一匹殺しても殺生、況してや人命をあやめるとは何事ぞ。
 よしや名目上朝敵であろうと、永遠に生れ変ってその都度大殺生を繰り返す、とてもとても赦されざる罪業、仏罰深重地獄行きだ、こんな風に受けとられる。
 世間がそう思い込んでいても糞食らえだ。仏罰を受けて未来永劫堕地獄結構。閻魔を突きとばしてもこの世に生を変えて朝敵一人残らず減尽せしめるのだ。さあ御一統地獄往きだ!この様に脚色づけたくなる。
 大楠公御一統には、死んだらどうなる、天晴れ忠臣として讃えられ後に続く者を感奮興起せしめんとか、全く逆に国賊と踏んづけられて門葉枯れ果てはすまいか、等等の功利打算の一点すらない。
 あるものはただただ天皇近衛国体護持の至純至誠これのみ。以上の殉節の刹那をこの様に承け継ぎたい。

 第五、和気公の皇統御守護大任全うをめでられて以降、即位や邦家の大事に勅使として宇佐八幡宮へ差遣される光栄の「宇佐使」には必ず子孫筋が拝命した。
 又、何時しか典薬頭(テンヤクノカミ)として陛下側近に侍り、あの承久の変で後鳥羽上皇絶海の隠岐へと播遷(ハセン)させられ給うた時随行して御身辺に仕えたのが和気公子孫。同様順徳上皇の佐渡島の場合もこれ亦子孫が玉体安穏に精魂をつくすなど、子々孫々の忠勤振りは護王大明神たる御先祖清麻呂公の遺誓によくぞ応えている。
 では楠公末裔の場合はどうか。阿修羅顔負けのすさまじい執念振りだ。吉野朝を甘言を弄して京都へとおびきよせ結果的に皇位の御しるしたる神器を簒奪した当の足利将軍こそ天誅物。
 三代義満、六代義教、八代義政と次々に暗殺せんとの挙に出たのが何れも楠公正統の子孫。この中間には皇居に押入り例の神器奪還という未曽有の大事件に及び、為に時の帝より「朝敵」たるの勅勘を蒙った。
 大楠公湊川殉節後実に二百二十三年振り、或る者のとりなしによってその朝敵勅勘が解かれた次第だ。
 「罪業深き悪念なれども七生滅賊」の楠公一統には、忠臣扱いされ様が朝敵大悪党として踏んづけられ様が一向に意に介されまい。
 純忠一途の生きざまによくよく思いを凝らしたい。

 第六、和気公・大楠公共謂わば文武の二大忠臣として景仰され現に皇居御濠端竹橋寄りに佐藤玄々畢生の謹作和気公の銅像が厳然とお立ち遊ばす。
 勿論二重橋前御苑には高村光雲謹作の大楠公騎馬像。さながら左・右大臣、左・右衛門督としての御姿だ。至誠至忠の両公帰幽後の図らずも蒙って居られる殊遇だ。
 さて最後は松陰烈士だが如上の和気・楠木両公のすべてを継承見事転生されたとしか思えないめざましい生涯を、あたら三十の若い身空に散らされた。
 先ず松陰烈士の長からざる生涯を概見するに、神童の誉高い幼少の砌りより格別に藩主毛利公に目をかけられ山鹿流兵学の家筋とて特にそうした面に心を砕き営々研磨につとめられた。
 折しも幕末風雲とみに急を告げ、今こそ兵学者たる拙者御奉公の機と藩内に安居を貪るを潔しとしない。
 遇々藩公の御伴をして江戸への旅次、水戸光圀建立の「鳴呼忠臣楠子之墓」を詣で感激の余り朱舜水碑文の石摺を需め更には伏見の宿で「楠公墓下の作」を詩賦する。江戸に着き藩主の許しを得て水戸に短期遊学、特に「新論」の著者として当時名声赫々たる会沢正志斎等の馨咳に触れ「身皇国に生れて皇国の皇国たる所以を知らざれば何を以ってか天地に立たん」との感慨に打たれる。
 忽ちに留学期限も切れ、やむなく同志と二人して脱藩覚悟の東北行脚に出で発つ。
 攘夷の為の海浜防護で一番手薄なのが東北、遂に本州最北端竜飛岬まで到り着く。
 その挙句江戸に帰って下屋敷に届け出れば、脱藩の廉で蟄居の厄に遭う。程なくして佐久間象山の指嗾を受けて下田踏海の廉で重罪を受け野山獄に投ぜらる。
 獄中つらつら省みて、自分の今迄の言動は何んだったのか。もとより国家存亡の非常の渦中、自分はやせても枯れても山鹿流の兵法家だ。今こそ全身全霊を挙げての御奉公の機と鋭意専念その事に当ってきた。
 が、黒船が来襲するから一大事だ、それ沿岸を固めよ、台風がくるから屋根の補強を- これらは事大主義的事務策に過ぎない。何故かなれば外敵がこなければ、台風が見舞わなければ、ふだんの備えはさして要がない。この発想は本末転倒。何が来ようが来まいが常に心し、常に万全の誠を尽くす対象こそ皇室、天皇あっての軍備自衛であり、天皇あっての凡てだ。
 ああ、今迄の過去半生何をしてきたかと慨嘆措く能わず。偽勤皇と自らを決めつけ、今、この刹那のたった今真勤皇に目ざめた。
 覚醒した今から余命幾莫か、至誠勤皇一途に燃焼せん。この様な遺文に接する。
 私は安政三年(一八五六)獄裡廿七才の松陰烈士にこそ転生の鮮やかさを感ずる。
 「天下は一人の天下に非ざるの説」を完膚なき迄に反駁、日本と他国(支那)とは国柄が本質的に全く違う。若し彼の桀や紂如き暴君が出られたらどうするか。支那では待ってましたと許りその帝王を追っ払って自分が最高権力の座につく。革命・放伐という奴だ。
 日本は断乎として然らず、側近の士陛下へ直諫して後身の始末をつける。心ある国民宮闕のもとにひれ伏して陛下の御感悟を悃祷する。祈りに祈り精魂つき果てて祈り死にする。
 ここに日本人の生きざま死にざまがあるのだと、幕府御用学朱子学の根本批判に徹底する。
 幕閣幹部何がしの要撃策が知られて遂に極刑に処せられることになる。
 その刑死十日前一友へ書簡をしたためて曰く「(皇祖の天壌無窮の)神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時必ずあるなり、只今の時勢に頓着するは神勅を疑うの罪軽からざるなり」添え歌「皇神の誓いおきたる国なれば正しき道のいかで絶ゆべき」
 こうして最後には天皇信仰の白熱的至境に立到った松陰烈士の短き生涯こそ国体擁護の権化たる和気公そのものであり、純忠無比の大楠公のそれであろう

 時間も大分費し御意図から外れた話しっぷりに終始して了ったが、有名な松下村塾も強いて結びつければ和気公の弘文院の継承とも感じられ、人材育成、回天御一新の志士を輩出せしめた勤皇教育者たるの松陰烈士の真骨頂とも仰がれる。
 次に二十二才江戸遊学途次の楠公碑に感じての詩作はもとよりであるが、安政三年二十七才の時の「七生説」の意味するもの深重極まりない。
 ここに楠公への転生悲願の歴々たるを看る。松陰烈士真勤皇宣言時の矢張り二十七才の時点で大楠公笠置言上より五百三十戴、和気公より大楠公への五百五十載の転生間隔とほぼ同じ。
 天の配意か、奇縁をかしこまざるを得ない。私事乍ら毎朝夕神霊御三体を居間に祀って余念なく身近かに拝脆し参らせている。

民族戦線 平成四年三月二十日(第53号)より