民族戦線 第49号 (平成3年4月29日)より

燃える残照に美を見る

平家物語と太平記が奏でる壮大な叙事詩

越前屋 正


 わが国に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(大伴旅人)。このとき旅人が見ていたのは、雪のように降りしきる梅花の実景ではなく、おそらくはその花のまぼろしであったのであろう。
 絢爛と咲く花の盛りを眺めながらその花の散りゆくさまをまぶたに描いていた旅人の詩魂には、落日の荘厳に美の永遠を見てきた日本人の生死観が脈打っていた。

   (一)
 都を落ちてゆく平忠度が、夜ひそかに歌の師の藤原俊成卿を五条の館にたずね、歌集一巻を託して立ち去る平家物語の一場面は、さながら一幅の絵でも見るように美しい。

   春(安徳天皇)既に都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。生涯の面目に、一首
   なりとも御恩をかうぶらうと存じ侯ひて

 と、鎧の引き合わせから忠度が取り出した巻物には歌百首あまり。「さらば、いとま申して」と馬に打ち乗り、闇に消えてゆく忠度の後姿に、はらはらと名残りの花が舞い落ちるのだ。
 後日、託された歌集の中から、歌一首を撰んだ俊成が、いまは勅勘の身となった忠度の名字をはばかり、これを読み人知らず、として千載和歌集に載せるくだりを、平家の作者は俊成とともに、涙にくれながら次のように書き綴るのである。

   忠度のありしさま、言ひ置きし言の葉、今更思い出でてあはれなりければ、かの巻物のうち
   に、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば名字をばあらはられず、故郷の花
   といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、読み人知らずと入れられける。
        故郷の花
   さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
                   (読み人知らず)

 木曽義仲に追われて福原へ落ちゆく平家の公達。「一門の運命はや尽き侯ひぬ」と死を覚悟しながら、滅びを目前にしてなお歌の心を忘れず、風雅に生きる武人の姿を描くこの忠度都落(巻第七)の調べには、平家物語ならではの寂然の気が漂う。
 いのちには限りがあり、かたちあるものは必ず毀(にぼ)つ。今日あって明日なき乱世で信じられるものは、忠度にとって美しかなかったであろう。荒れはてた志賀(滋賀)の都に、昔ながらの艶治な姿をみせる長等山の山桜。やがて散り移ろいゆく花にわが身の上を仮託した忠度は、その無心な花影に美の永遠を視ていたのかもしれなかった。
 平家物語に流れる主調音が、諸行無常の仏教観などというのは当らない。無名の作者たちによって書き継がれ、語り継がれてきたこの戦記文学が、人々の心をとらえて話さなかったのは仏教思想などというものではなく、花にまぼろしを見てきた記紀以来の伝統的な叙事詩が、壮大なシンフォニーを奏でて人々を魅了してやまなかったからである。
   (二)
 一の谷の合戦に敗れて手傷を負うた忠度が、いまはこれまでと西の方に向かい、高声に十念を唱えつつ、従容と死の座につく忠度最期(巻第九)のくだりは、風雅に生きた武人の最後を伝えてもののあわれを誘う。
 物語はこのときの忠度の出立ちを「紺地の錦の直垂に黒系縅の鎧着と、黒馬の太うたくましきに、沃懸(いかけ)地の鞍置き」と述べる。その箙(えびら)に結びつけられた文に、忠度は「旅宿の花」と銘打つ辞世の歌を書きのこしてあった。

   行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし

 忠度の最期を聞いた敵も味方も等しく「あないとほし。武芸にも歌道にも達者におはしつる人を、あったら将軍を」と、涙で袖をぬらさぬ者はなかったと物語はいう。
 この辞世の歌を基調に、須磨の花の風情を平家物語ならぬ「源氏物語」の詩草を点綴しながら、壮絶な合戦の模様を春の夜のまぼろしに収斂したのが謡曲「忠度」であった。
 世阿弥自身がその幽玄性をもっとも高く評価したこの夢幻能は、滅びゆく平家の悲運を忠度の最期を重畳させて、もはや修羅の苦患とは無絶な風雅の花へと見事に昇華させている。

   おん身この花の、蔭に立ち寄り給ひしを、かく物語り申さんとて、日を暮らし留めしなり、
   今は疑ひもよらじ、花は根に帰るなり。わが跡弔ひと賜び給へ、木蔭を旅の宿とせば、花こ
   そ主なりけれ。

 陰々たるその地謡の調べは、滅びゆく平家一門とともに、無明の旅をゆく忠度への鎮魂の譜でもあったようか。諸国一見の旅僧に合戦の模様を語って聞かせ、さらば「わが跡弔ひて賜び給へ」と回向を乞いながら、冥府への道を引き返えす忠度の亡霊。落花の舞いとともに静かに果てるこの夢幻の能には啾々の余韻がただよう。
 花は根に帰るなり。音もなく地に沈むひとひらの花は、文武にすぐれた忠度の滅びと再生をあらわす華麗な姿相であり、それを能という独自の様式を通じて一曲の舞台美に造型した世阿弥は、また「忠度」を介して「散るゆえにこそ花」という根源的な生死の問いを提起していたのだ。
 散る花、名残りの花。落日の荘厳に永遠の美をみてきた日本人の詩情は、平家物語の作者らに落ちゆく公達のあわれを語らせ、それに依拠した「忠度」や「頼政」などという優れた謡曲を世阿弥に書かせた。「源平の名将は平家物語のままに」と説いた世阿弥は、この物語に流れる荘重な調べのなかに、もっとも美しい日本の伝統的な叙事詩の肉声を聞いていたのであろう。そこには仏教や儒教思想などという惑わしいものは一切介在しない。
   (三)
 西海の涯てに沈む平家の落日は、いとけなき安徳天皇が二位の尼に抱かれて壇の浦に入水する先帝身投(巻第十一)の語りに極まるだろう。「御運すでに尽きさせ給ひぬ」といわれ、幼き手を合わせて伊勢大神宮にお暇をし、西の方に向かって念仏を唱える幼帝の御姿は、聞くものの涙を誘わずにはおれない。

   二位殿やがて抱き奉り、「波の下にも都のさぶらふぞ」と慰め奉って、千尋の底へぞ入り結
   ふ。

 「悲しいかな」と物語の作者らもまた、御年わずか八歳の幼帝の悲運を痛み、荒き波間に沈む花の玉体をあわれんで涙にくれるのである。
 太平記が成ったのはこの物語からおよそ百年後。「玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と綸言され、御剣を按じたまま吉野山中に寂しく崩じられた後醍醐天皇を哀しむおもいは、太平記の作者らもまた変らない。

   寂寞たる空山の内、鳥啼き日すでに暮れぬ。土墳 数尺の草、一径涙尽きて愁へいまだ尽き
   ず。

 と、作者らは悲憤のうちに崩じられた後醍醐帝の、まさに武人にも劣らぬ凛乎とした御最期を悼み、夢裡の花を慕うがごとく、みかどとの別れを悲しむのである。
 日本人が平家物語と同様に太平記を愛し、「語りもの」「読みもの」として永く親しんできたのも、争乱のさなかに生まれたこの軍記物が、単に面白いからというだけではなく、それが滅びゆく南朝への挽歌として書かれた記録文学であったからであろう。
 しかし、太平記には、同じ武人の死を描いても平家物語のような哀調のしらべはない。そこに現前するのは、どよめく鯨波の声であり、軍馬の嘶きであり、そして累々たる戦場の屍である。

   四海大に乱れて、一日も未だ安からず。狼煙天を翳し、鯨波地を動かすこと今に至るまで四
   十余年、一人として春秋に富めることを得ず、万民手足を措くに所なし。

 ここには天皇も貴族も、武士も領民も、あらゆる人々が死の渕をのぞきながら生きていた荒涼の風景があった。おそらくこの物語に、曲節をつけて語り伝えた「太平記読みたちもまた、その荒涼たる風景のなかで演じられる武人たちの壮絶な生と死のドラマを、臨唾(かたず)を呑みながら凝視していたのであろう。
 同じ軍記物でも平家物語が武人の雅びを奏でる哀調の叙事詩なら、太平記を流れる力強い旋律は、殺伐たる下剋上の一大交響曲といえるかもしれない。
   (四)
 六波羅探題が足利尊氏に攻略された元弘三年(一三三三)五月、関東に落ちる探題の北条仲時らが光厳天皇を擁して逢坂山にさしかかったとき、野伏の射かける一筋の矢が天皇の肱に刺さる。
 天皇を護る中吉弥八なる武者が「忝も一天の君、関東へ臨幸成る処に、何者なれば加様の狼籍をば仕るぞ」と咨めると、野伏らはからからと哄笑して次のように答えるのだ。

   如何なる一天の君にても渡らせ給へ、御運巳に尽きて落させ給はんずるを、押し通らせんと
   は申すまじ。易く通り度く思召さば、御伴の武士の馬物具を皆捨てさせて、御心安く落とさ
   せ給へ。

 通りたければ身ぐるみ脱いで通れ、といったと太平記(巻第九)は語るのである。
 打ち続く戦乱のなかで土民はただ悲鳴をあげ、後生を念じて逃げ惑うのみではなかった。おのれを守り、家財を守るために進んで槍を持ち、弓矢を持つ徒立ちの野伏集団となって動乱の世を生き抜こうとしたのである。
 戦さ名乗りを上げて徐ろに開始される鎧武者の一騎打ちから、足軽や野伏の歩兵集団が活躍する合戦へと、戦闘場面は大きく転換する。平家物語と太平記の間に流れる百年の星霜が、戦いの様相を一変させていた。
 武人の最期にもそれはあらわれる。平家物語に語られる静謐な武将の死とは対照的に太平記が語る鎌倉武士たちの最期には、血しぶきを撒き散らす荒々しい男の美学があった。
 吉野へ落ちる大塔宮の身代わりとなり、宮の鎧を着て高櫓に登った村上義光が「腹を切らんずる時の手本にせよ」と双肌ぬぎ、腹一文字に掻き切って、はらわたを櫓の板になげつける凄惨な自害の場面(巻第七)こそは、太平記の骨頂を物語るものであろう。
 落ちゆく平家の公達と、下剋上の世を生きる鎌倉武土の生死観の違いとでもいおうか。燃える残照にも似た壮絶な武人の最期を、太平記の作者たちは簡潔で、淡々とした筆至をもって書き綴ってゆくのである。
    (五)
 東勝寺跡を私が鎌倉に訪ねたのは、今から十五、六年も前のことになろうか。屏風山に近い小高いその辺りは、一面の雑草に蔽われ、かつて関東十刹の一として北条の栄華を誇った昔日の面影はどこにも見られなかった。
 元弘三年五月二十二日、反幕の兵をあげた新田義貞に改められ、執権高時以下主従八百七十余人、一斉に刃をとり、折重なるように城内を鮮血で染めた鎌倉幕府終えんの地である。太平記(巻第十)はその有様を次のように述べる。

   掌に座を列ねたる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、押膚脱ぎ脱ぎ、腹を切る人あり、
   自ら首をかき落す人あり思ひ思ひの最期の体、殊に由々しくぞ見えたりし。

 田楽にうつつをぬかす遊蕩児、と太平記に書かれた執権高時。「北条勢は弱兵のみ」と世にいわれた幕府一門とその郎党でさえも、討たれるよりは自らの手で死を飾る鎌倉武士の意気地と、衿持をもっていたことをこの鮮血は物語っていた。
 東勝寺跡からさらに、数間離れたところに「高時腹切りやぐら」と呼ばれる洞穴があり、折重なるように自害して果てた高時ら一族郎党八百七十余人が眠る墳墓と伝えられている。いまは寂として声もなく、ただ松籟に慟哭を聞くのみだが、そのときの私の肚裡によみがえったのは次なる太平記の語りであった。

   六十余州ことごとく符を合はせたる如く、同時に軍起ってわずかに四十三日のうちに、皆滅
   びぬる業報の程こそ不思議なれ。(巻第十一)

 時代が移れば価値観も変り、史観もまた変るのはやむを得まい。しかしどのように時代が移り、価値観が変ろうとも人間の歴史には時代を超えて光を失わぬものがある。それを平家物語や太平記の作者らは、流暢な語り口をもって私たちに教えてくれているのだ。