民族戦線 平成5年2月1日(第56号)より

伝統の美を守るということ

越 前 屋  正 
(えちぜんや ただし)


一、太古の風景を視る
 冬の上諏訪を歩いたことがあった。「おみわたり」を見るためである。諏訪は雪の少ないところだが、その冬は格別さむく、町は粉雪に包まれていた。やむことなく小雪が舞い、諏訪湖の景は寂寞(じゃくまく)を極めていた。
 諏訪は凍(し)みる町である。冬の声を開くとたちまち湖は凍りはじめ、やがて結氷して「おみわたり」の現象が起こる。凍りついた湖がある夜突然、おそろしい音響とともに真っ二つに裂け、東岸から西岸へ向かって稲妻のように氷の亀裂が走る現象のことだ。
 それを対岸の上社から下社へ渡る神の足音として、いつのころからか「おみわたり」と呼ばれるようになり、新しい年の収穫を占うならわしとなってきた。
 武の守護神をまつる諏訪大社は古来、武将の崇敬が厚かった社であり、とりわけ七年目ごとに行われる御柱祭はあまねく人口に膾気している。上、下社の柱に用いる大木を伐り出し、山上から一気に引き落とすこの荒々しい祭事は、時に夥しい死傷者を出す危険な行事として知られているが、死者が出たからといって、いまだにこの伝統行事が中止されたためしはない。生死を超えるこの神人一体の伝統は、氏子の信仰の中に骨太く生き続けてきたのである。
 「おみわたり」がはじまったのか、宿の梁が探夜ビシッビシッと無気味に鳴り続け、やがて地を揺がす激しい震動が部屋に伝わってきた。「おみわたり」の瞬間を目にすることはできなかったが、「湖が鳴る」という土地の言葉が、決して誇張でないことを知ったのはその夜の体験があったからである。
 土地の者でもない限り、「おみわたり」を目にするのは容易でない。たまたまその鳴動を肌で感じることができただけでも僥倖というほかはなかった。翌朝、雪の罷(や)んだ湖のほとりに立ち、朝の光にかがやく氷の亀裂を眼のあたりにしたとき、思わず息をのんだものである。その荒々しい氷の刃先には、まさしく太古の美が光っていた。
 湖面をわたる神へのおそれだけで、かかる神事の伝統が永く人々の信仰の中に生き続けてきたとは思えない。この世ならぬ美しいもの、気高いものへの憧れが人々の心の中にあったからこそ、人は「おみわたり」に美の永遠を視てきたのであろう。永遠を視るとは神を視ることである。
 この「おみわたり」が新しい年の収種を占う神事とかかわり合っているのは、さらに興味深い。漆黒の闇を裂いて湖面にとどろき渡る荒神の足音。それはこの闇の世に光をもたらす天の岩戸開きの「蹈みとどろこし」であったのかも知れない。音が去ったあとの氷の沈黙はこの上なく美しく、神々しいものに見えた。私はそのとき、光る水のかなたに神さびた太古の風景を視ていたのである。


ニ、豊穣と鎮魂の祈り
 人は現在、日々貯えられる尨大な音量の堆積の中で、ごく微細な虫の鳴き声を聴く内なる耳さえ失ってしまっている。まして草や木の神々と共に生き、神々と暮していることに何の疑念もこだわりも抱かなかった太古の人人の音声など、聴く耳を持たなくなってすでに久しい。しかしこの国の風土美に心を奪われ、その「かたち」の創造にいのちを削った中世の先覚者たちが、その内なる耳で聴きとっていたのは太古の神々の足音であり、妙なる音霊であった。
 その意味でも中世は、人々の心に太古の音霊がよみがえった時代であり、美の永遠が信じられた時代でもあったのである。
 世阿弥によって完成された能が、たゆまぬ「稽古」の所産であったことは風姿花伝を読むまでもない。けれども技の錬磨だけで能の思想性を高めるのは至難のわざだろう。作能にあたって観阿弥、世阿弥父子が最後までこだわり続けたのが「神事」であったことを見落としてはならないのである。
 ほとんど卑俗的な滑稽物まね芸でしかなかった申楽(さるがく)に芸術性を与え、武家社会の鑑賞をかち得る舞台芸能にまでそれを昇華させえたのは、「申楽はもとこれ神儀なり」という観阿弥の大胆な提言であった。申楽の起源は天の岩戸開きの神楽に発するとした観阿弥の思想が、能の幽玄性を深める上で重要な役割を果たしたことはいうまでもない。神事と探く結びつかぬ芸能はこの国では大成しないのである。

 上宮太子(聖徳太子)、末代のため、神楽なりしを、神といふ文字の偏を除(の)けて、旁(つくり)を残したまふ。これ日暦(ひよみ)の申(さる)なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。
                                      (風姿花伝)

 むろん、ここに述べられているのは伝説にすぎない。しかし何よりも重要なのは観阿弥がその伝説を事実と信じ、それを能楽に取りこみ、芸術論として思想的に体系づけたことであろう。伝統芸能としての能楽はそこから始まるのである。
 しかも申楽は神儀であるとしたこの思想は、卑俗低級のものとされてきた申楽者の社会的地位を一挙に高めたばかりか、芸術家としての自覚と自信を彼らに与えるきっかけとなったことを見逃すべきではない。
 能の神事性を最も顕著に表現したものに、式三番と呼ばれる「翁(おきな)」がある。世阿弥が能の根本と位置づけて別格に扱った祝?の歌舞であり、翁面をつけるシテ方の演者は一座の最長老に限られていた。
 舞台上で面をつけ、地を踏み鎮めながら「とうとうたらりたらりら」と、呪文のごときものを唱って舞い続ける「翁」。この不思議な舞で「翁」が表現するのはまず稲経(いなつみ)であり、五穀豊穣への祈りと鎮魂の儀礼なのである。舞を終え、また面をはずして舞台を去ってゆくこの「翁」が、目に見えぬ造化の主、産霊の神の化身であることはいうまでもない。


三、「一座建立」のこと
 地を踏む、踏み鎮めるという所作には、もろもろの霊を封じこめ、この大地に豊穣と泰平をよび寄せる願いと祈りがこめられている。地を踏み鎮める神々の足音。その原初の音霊が「翁」の主調音をなしているのは疑うべくもないが、音霊に和して共に豊穣を祝?する人々の信仰は、やがてこの国の土壌にさまざまな文化の「かたち」を残してゆくのである。「座」の思想もその一つであろう。
 風姿花伝に「一座建立」という言葉がみえる。「衆人愛敬(しゅうにんあいぎょう)をもて、一座建立の寿福とせり」という一条だ。座を建てる、座を組む、という思想がいつごろから根を下ろしはじめたかは知らない。世阿弥のいう「座」とは、むろん、芸事にかかわる座のことであり、それは歌舞音曲の「一座」を指しているだろう。
 しかし人が寄り合って座を建てる、座をつくることに寿福を感ずるという観念はきわめて日本的であり、それは日本人の生活そのもの、民族性そのものに深く根を下ろした土着の思想ではなかったかと思う。
 言うまでもなく人は孤立しては生きてゆけない。その生きて行けない者同士が肩を寄せ合い、心を寄せ合って寿福の場をつくったのが「寄合」であり、「座」であったのだろう。そしてその「座」の中心には、つねに神がいた。一つの空間に、人々が寄り合って一つの座をつくる。いくつもの座であってはならない。村に何事かが起こったとき、また起ころうとしているとき、村民が一つところに寄り合うのを「村座」と言い、鎮守神の社に氏子が集合するのを「宮座」と呼んだという記録が古い文献にのこっている。十一世紀頃のことだ。
 鎌倉中期、武家社会に登場した「会所」もまたこれに類するもので、「座」と言い、「会(え)」という観念が中世を生きる日本人にとって、いかに重要な部分を占め、生活に欠かせぬものであったかをこれらの記録は物語っている。
 座をつくる、座を建てる、とは、むろん造形的な意味だけではなく、それは出合いの瞬間を大切にすることであり、心の通じ合う「くつろぎ」の場をつくり出すという意味が含まれていた。このゆえに「和」の環境づくりが巧くいかないことを「座がしらける」と言い、または「座がこわれる」などと称したのである。
 「連歌(れんが)一座」という言葉もあった。しだれ桜の木の下で連歌の座を設けたという記録も多く文献にのこっているから、「座」をつくる寄り合い思想は、あるいは古代の歌垣、?歌会(かがい)にその源を発しているのかも知れない。
 「村座」や「宮座」に欠かせぬものは「郷飲酒礼」の宴であり、酒盛りであった。うたげは「歌あげ」である。神前に供えたお神酒を一つ器におろし、互いに飲み交わしながら祝いの歌をうたい合う。神とともに共同飲食するという上古の習俗がそこに生きていた。そして、その習俗はまた寄合芸能としての茶の湯の「一味同心」にもつながってゆくのである。


四、美を倫理に高める
 孤立しては生きてゆけぬ者同士が一座を建立し、一つところに寄り合うのが乱世の孤独感から生まれた「座」の思想であるならば、茶の湯における「一期一会」の観念もまた、出合いと別れの切実感を極限までつきつめた乱世の思想だったといえるだろう。
 「座」は空間であり、「会(え)」は時間である。今日あって明日なき乱世を生きる人々にとつて出会いとは何であったか、座とは何であったか。この一瞬の出会いが一期(一生)の別れになるかも知れぬという切実な思いが、一座することのよろこびと冥加を人々に与えたに相違なかった。
一椀の茶、一杯の神酒を互いに飲み交わしながら「一味同心」する。このごく日常的な共同飲食の習俗の中から茶の湯の思想を汲み上げ、それをさらに倫理にまで高めていった美意識と創造力は他国に類を見ない。
 古来、わが国はさまざまな文化や習俗を他国から摂り入れ、それを咀嚼し風土化しながら、風土になじまぬものは容赦なく切り捨ててきた。古代朝鮮から伝わった野外舞踏の歌垣が、国風文化の目覚めとともに文献上から姿をかき消していったのもそうした流れの一つであり、その流れの中から先祖神を中心とした日本独自の寄合思想や「座」の思想が新たに生まれてゆくのだ。
 この国土に育くまれ、豊穣な自然と英知によって築き上げられてきた美の伝統が、神を尊び、先祖をうやまう敬虔な心情を水脈として培養されてきたことを忘れてはならないだろう。この国土に生まれた独自の伝統文化は、神の司祭者であり現人神である天皇を核として花開いた文化であった。
 伝統は一夜で生まれるものではない。まして伝統は単なる習慣の蓄積ではなく、それは明噺な意思と創造力によって築き上げられる民族固有の価値であり、「かたち」である。このゆえに、伝統を守るということは「かたち」を大切にすることであり、「かたち」に誠実であるということだ。節操を守るということでもある。
 現代は「かたち」の崩壊の時代といえるかも知れない。誠実さを忘れ、節操をなくした政治の紊乱は、この国の美しい「かたち」にいのちを賭けてきた先人たちの「こころ」をも無残に蝕みつつある。「かたち」の崩壊は「こころ」の崩壊につながるのだ。現代人は神を失ったのである。