序章・楠公末裔に生まれて
楠 公 研 究 会
代表 山下弘枝
自分が楠木一族であるという事をはっきりと認識したのは十一歳の時であった。
私の家系では、代々、十一歳を一つの区切りとして見る習いがあった。それは、楠公父子の桜井の訣別当時の小楠公の年齢に由来している。十一歳で父・大楠公が殉節し、同時に、嫡男である小楠公は実質的に楠木家の当主となったのである。子供の成長を祈り感謝し祝う行事として、関西では十三詣りが一般的だが、私の家では小楠公に因んだ十一詣りなるものが定着していた程、十一歳という年齢を重視していた。いわば、昔で言う元服に近い感覚である。
我が家は非常に厳しい家風であり、私が物心つく頃には茶道・華道・書道・香道・着付け・能楽・ピアノ・バレエといったありとあらゆる稽古事を仕込まれてきた。また、神戸の湊川神社の御祭神の詳細について知らなかったものの、我が家の先祖が御祭神である事は祭事に参列する事により知ってはいたし、当時宮司を務めていらっしゃった吉田智朗宮司始め神主の方々には大変親しく丁重に接していただいていたから、我が家は普通の家とは何かが違う・・・と漠然と感じてはいた。父は、当時の千早赤阪村立郷土資料館の館長とも懇意にしていたのを覚えている。とはいえ、当時のまだ小学生の私は、自らの家筋についてさほど気に留めてはいなかった。
十一歳の女子といえばいろいろと多感な年齢であり、私も御多分に漏れず反抗期なる時期の真っ只中で、散々に両親を手こずらせていたようだ。そんなある日、この日も父にこっぴどく叱られた後の事。改まって、和室の居間に正座するように言われた。一体どうした事だろうと神妙に席に着くと、父は徐に金庫から古い書を出してきた。それは系図と父の生後間もなく取られた戸籍謄本であった。そして、それを私に見せながら、現在の大阪は河南町に生まれた父の両親共に大楠公三男・楠木正儀卿の血を引く家筋であり、我が家は大楠公末裔一族である事を懇々と語り始めた。
戦後の自虐史観が蔓延している現代の学校において、大楠公について教わる事も無かったので、父から初めて先祖・大楠公の忠義に生きた事蹟と桜井の訣別時に残された遺訓について教えられた私は、非常に大きな衝撃に似た感覚を受けた事を覚えている。「自分の血筋についてもっと自覚と誇りを持ち、それに見合った言動をするように」と父に諭され、今まで何も考えず、普通の十代の女子のように振る舞っていた事を恥ずかしくすら思えてならなかった。この時から、私は心を入れ替え、先祖に恥じぬ人間となるよう勉学に熱心に励むようになる。同時に、先祖についてもっと知りたいと思うようになり、図書館等に通い、多くの楠公関連の本を読み漁るようになったのだが、ここで更に大きな衝撃を受ける事となる。そして、この事が、楠公の末裔に生を受けた私の波乱に満ちた数奇な運命の始まりとなったのである。 つづく
平成二十九年一月二十五日
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