西川祐信 肉筆極彩絵巻「納涼の図」
江戸中期(双蓮書屋蔵)
 床の歴史は大変古く、営業形態にはなっていませんが、豊臣時代の頃に裕福な商人が夏に遠来の客を遇すのに、五条河原付近の浅瀬に床几を置いたのが始まりだと言われています。

 京都の年中行事を詳しく記した延宝5年の「日次紀事」には、6月7日の神事として祇園会のあとに「四条河原の水陸、寸地を漏らさず床を並べ、席を設く」とあり、また元治元年の花洛名勝図会によれば、同様に「6月7日の夜より18日の夜に亘って、四条河原水陸寸地を漏らさず床を並べ席を設けて良賎般楽す。東西の茶屋茶店提灯を張り、行灯を掲げてあたかも白昼の如し。これを 河原の涼みと云う。あんずるにこれ遊戯の納涼にあらず。諸人に名越しの夜をなさしめんとの神慮なるべし。されば13日の夜に至っては、祇園の宵宮とてことに賑わし 云々」とあって、往時の賑いが偲ばれます。
 さらに近年になって、明治時代の床は、7、8月の2か月間設置されるのが定着して、四条大橋を中心に、北は竹村屋橋(四条大橋より北へ200m程の所にあった橋)の少し北から、南は団栗橋の南まで出されていました。
 昭和9年9月、室戸台風が淀川を北上、京都を直撃して大きな被害を受け、その復旧も十分でなかった翌昭和10年6月には、未曾有の年中豪雨によって、京都市を中心とした地域は大きな打撃を受けました。
 このときの鴨川の補修工事によって、現在のミソソギ川が出来て、その上に納涼床を設けるようになりました。
 昭和17年、第2次世界大戦による営業自粛、灯火管制、遊興の禁止等のために禁じられ、洪水で流れたり、金属供出のため終戦の20年頃には全くなくなってしまいました。
 戦後、昭和25年に数軒が床の設置を申請。戦後の反動で欄干を朱塗りにするもの、床の脚を舟型にするもの 等、鴨川の風致を破壊するようなものが出たため、昭和27年、京都府土木部から「鴨川の高床について」の通達が出され、この時に現在の鴨涯保勝会が誕生、鴨川の趣を保存しようと発足しました。
 現在、床は店鋪に密着する形でミソソギ川に設置されていますが、本来は床と店鋪は渡り廊下でつながっているのが本当の形です。これは洪水で床が流れた時、店鋪に被害が出るのを防ぐためです。

鴨涯保勝会会長 久保 明彦
田中緑江「なつかしい京都」より出典

現在の納涼床

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