天使じゃないってば!





オシッコは出てますか?

男性の泌尿器科患者で多いのは前立腺疾患である。
前立腺は男性に特有の器官で尿道を取り囲むように存在しており、男性ホルモンの 影響を受けて加齢と共に肥大する。
つまり、老化現象と言ってよい。
肥大の程度は 人により様々で、それに伴う排尿障害が高度になると外科的治療の対象となる。

オシッコが出なくなることを、医学的には尿閉(にょうへい)という。
人間の3大 欲求は食欲・睡眠欲・排泄欲だ(広義には性欲も排泄欲に含まれるだろう)。
カン タンに言えば、「食う・寝る・出す」である。
「食う」「寝る」は、日単位でガマン することができるが「出す」は一日24時間ガマンしていたら死んでしまう。
第一 、普通に飲食していてオシッコを一日出さない、というのはまず不可能である。
も し、出ないという人がいたらそれは異常事態なので、すぐに病院に行った方がよい 。
それくらいオシッコは大切なのだ。
前立腺の肥大が高度になると、オシッコがしたくても出なくなる。
出ないまではい かなくても、勢いよく出ない・出るまでに時間がかかる・出してもまたすぐに行き たくなるなどの症状に悩まされる。
では出したいオシッコが出ない、即ち「尿閉」になったらどうするか。
管を入れる。
「カテーテル」と呼ばれる管を尿道から膀胱内に通してオシッコを出 すのである。
これは本来医師が行うべき医療行為だが、オシッコが出なくなるのは いつも医者がいる時間とは限らない。
夜間は当直医もいるが、たかがオシッコの管 を入れるために真夜中に医者を呼ぶのも気が引ける。
だから、私の勤務先では大抵 ナースが行うことになる。
これはされる方もツライが、行う方も結構ツライ。
医療行為とは言え、女性、しか も若いコに「モノ」をつかまれ、管を通される苦痛を彼らはどう感じているのだろ う。
看護士さんは泌尿器科にもっと配置されるべきだ、と私は常々思っている。
いや、しかしひょっとしたらちょっぴりうれしいのかもしれない・・・。
私は日頃こんな人々を相手に仕事をしている。
だから昨今の、必要もないのに男性 機能を回復するというクスリに群がる人々の話を聞くにつけ、それらの人々のオシ ッコは大丈夫だろうか、と密かに心配するのだ。

ちなみに前立腺肥大症の患者は概して神経質だ。
以前の勤務先でもやはりそうだっ た。
なぜなのかは今もって不明である。
病が性格を変えるのか、性格が病を呼ぶの か。いつか解明したいテーマである。
だが、合計9年間の泌尿器科看護とももうおさらばだ。
今後も看護婦は続けるが、私 はこの3月で現在の職場を辞し、一旦白衣を脱ぐ。
長年のギモンが解明できるのはさて、いつのことになるだろう。
ところでみなさん、オシッコは出てますか?

ささやかな悦び

自分で言うのも何だか、私は採血・点滴が上手い。
もっとも、9年も民間病院の臨床で看護婦をやっていれば上手くてあたり前でもあ るのだが、この「上手い」には採血や点滴を「失敗せずに確実にできる」ことと、 「痛くない」ことの二つの意味がある。この二つの意味において、私は自分で上手 だと思っている。
そして、患者にとっては後者は大切な要素であろう。

針を刺すと痛い。
痛いのは誰でもいやだし、患者はただでさえ不安や苦痛をともな う入院生活を強いられている。
そこに更に苦痛を与えることになる採血・点滴はい くら治療に必要とはいえ、本当に申し訳ないと思う。
だから、少しでも痛くないよ うに努力する。
その結果「痛くなかった」という言葉が患者の口から聞かれるとホ ッとするし、自分の技術が認められたように感じてうれしくなる。
日頃、患者の皆さんから様々な場面で感謝やねぎらいの言葉を受ける。
それはもち ろんありがたい。
しかし、私にとってはこの「痛くなかった。上手いねぇ。」とい う言葉が実はささやかな悦びなのである。
普段、私たち看護婦が話し掛ける一言によって患者を元気づける(時には傷つける こともあるが)ことがあるように、患者からのこのような一言、おそらく何気ない 一言が私につらくても眠くても「またがんばろう」と思わせてくれるのだ。

痛い採血や点滴の苦痛をできるだけ少なくするために、心がけていること。
まず、とにかく1回で終わらせる。何回も失敗するのは自分の信用に関わる。
もし 、2回刺してもだめな時は他の看護婦に代わってもらう。
それがどんなに難易度の 高い血管であっても、だ
。これはたとえ新人でも同様で、私たちはそうやって失敗 を繰り返し経験を重ねて技術を磨いていく(「練習台」になってくださった患者の 皆様、すみません)。
針を刺される瞬間。多少の差はあれ、これは誰でも恐怖である。
そこで私は「針を 刺しますね」と声をかけると同時に、または言いながら針を刺す。
「針を刺されたら痛い」ことを知っている者は、それを聞くと今から痛いんだと身 構える。
人間だけでなく、動物は本能的に苦痛から逃れようとするものだから、そ のわずかな「間」は恐怖を感じさせる。
「針刺しますよぉ」と言ってのんびりして いたら患者は精神的に苦痛を感じるだろう。心理的作戦である。
針を刺す時の角度も大切。手首のスナップを効かせてクイクイッと・・・。

何年前だったか、ちょっと好みのタイプの患者がいた。
ある日その患者の点滴を担 当した時に「うまいねぇ、全然痛くなかったよ。」と言われ、すっかりうれしくな った私は次にかえってプレッシャーを感じるあまり失敗してしまった。
・・・あの頃はまだ若かった。

白衣

私は仕事以外で白衣を身につけたことが2度ある。
最初は看護学生時代、友人に誘われた米米クラブのコンサートでだった。
このコンサートは彼ら自身が派手なだけでなく、観客もまた凝ったコスチュームを 身にまとい舞台上の彼らと歌い踊ることで知られていた。
しかし、学校や寮生活で 忙しかった私達にはそんな凝ったコスチュームを用意する時間がなかった。
そこで 私達は、実習用のユニフォームとナースキャップでコンサートに臨むことを思い付 いたのだ。
このユニフォームはサーモンピンクでなかなかかわいく、病棟実習では 密かに男性患者にウケが良かったという。
そんなユニフォーム(ピンクであるゆえ に白衣とは呼びにくく、こう呼んでいた)なら目立っちゃうだろう。
しかもナース キャップ付きだ。
かなりイケると思ったのだが、実際は意外と目立たなかった。
周囲があまりにもけばけばしくて負けてしまったのだ。
いくら皆が憧れる白衣とは言 えこれは「作業着」なのだ、と実感した体験でもあった。

ついでに22時の門限に遅れて後日、学校の先生に怒られた。
怒られたが、ユニフォ ームを持ち出したことはもちろん、黙っていた。
v 2度目は昨年だ。
昨年の12月、大学のゼミで卒論提出後の打ち上げ合宿があり、恒例となっている「 一芸大会」が催された。
早い話が忘年会である。
そしてこの「一芸」は全員参加で あった。
最初で最後の宴会芸をビシッと決めたい。
しかし、日頃は真面目な私は持ちネタが ない。
そこで私は再び白衣やナースキャップなど一式を持ち出すことにしたのだ。
聞くところによると、スチュワーデス・ナース・女子高生の制服はAVにおける3 大コスチュームらしい。
ゼミの半分くらいは男子大学生及び大学院生である。
これ はウケるに違いない。
女の子だって白衣には憧れの念を持つ。
何より、ゼミの教授 (♂)にちらりとほのめかした時に目が輝いたのを私は見逃さなかった。
と同時に 「このネタはいける」、と確信した。
しかし、ただ白衣を着て登場してもつまらない。
調子にのってきた私は、同じゼミ の一年下にやはり看護婦と大学を両立している人がいて、仲良くしていたので協力 を依頼し快諾を得て、寸劇に仕上げた。
かくして一芸は大成功!
教授は大喜び。同級生の男の子は「やだよぉー、オレ」と いいながらも白衣に興味シンシンだったので着てもらい、ついでに記念写真も撮っ てあげた。

「そのおかげでゼミの単位は’優’だったんじゃないの。」 とM君が言った。
・・・そうか、あの一芸大会はゼミ最後の課題だったのか。
・・・まさか、でも・ ・・!?。
だが、そんなM君もまたかつて会社の忘年会でナースに扮したことを、私は知って いる。


学生寮の思い出 (2)

看護学校の始業時間は9時だ。
学校までは徒歩15分だから、朝7時に朝食を済ませると少し時間があく。
また寝るもよし、勉学に励むもよし。洗濯してから学校に 行くという日もある。
しかし、学校に行きたくない、サボりたいと思っても、いや 図らずも寝坊をしてしまっても病欠以外は絶対に学校に行かざるを得なかった。
8時30分頃になると、寮管理人のおばちゃんが各部屋をまわって寝坊しているコが いないかチェックしてくれるのだ。
従って、「自主休講」は不可能であった。
そしてもちろん、私も何回か寝過ごしておばちゃんのお世話になった。

学校や病院など広くて人が集まる場所には大抵、「出る」というウワサが立つ。
この学生寮も、そんなウワサには事欠かなかった。
「○号室は出るらしい」とか、「廊下で足音がして部屋の前で止まったのに、誰もいない」とか。
確かに、築何十年かと思われたこの建物では何が出てもおかしくなかった。
私も話はよく聞いたが自分では体験しなかったので信じなかったし、そんな寮に住んでいても不思議と恐い とは思わなかった。

寮生活ではタテのつながりができるので先輩に試験の情報や過去問題もらったり、 また、3年生になれば寮内の細々したことを後輩に任せて病棟実習に集中出来たり 、と利点もあった。
同期生とはめったに同室になれなかったが、宿題があれば夜も食堂や図書室に集ま ってワイワイやりながら勉強できたし、
実習中や試験勉強のときには
「絶対起きる!起きるから○時に起こして!」
「じゃ、私そのあと寝るから朝ちゃんと起こしてよ!」
などとお互い頼みっこした。
何もなくても友人の部屋に入りこんで夜遅くまで語り合い、励ましあった。
一学年25人前後と少人数でしかも全員同じ屋根の下 、同じゴハンを食べ一緒にオフロに入る。非常に密な人間関係であった。

しかし、このような生活は私にとっては良くも悪くもあった。
ともすればべったりとなってしまう人間関係は、時にストレスとなった。
言葉も私にとってストレスだった。
結局、東京の言葉で自分の考えや感情を自然に表現できるようになるのに5年くら いかかった。
それまでは常にイントネーションを意識して話さなければならず、話すこと自体が ストレスだった。
学生寮で一番好きな場所は屋上だった。
寮は5階建てだが坂の上にあったため屋上 に上がると見晴らしがよく、東京タワーがきれいに見えた。
そしてそこは大抵、一人になれる場所であった。
私はここで夕日と一緒に東京タワーを眺めるのが好きだった。

今にして思えば、「若かったから」できたことようにも思う。
プライベートな空間がないに等しい、集団生活。
今はもう二度とできないからこそ、貴重な体験と思えるのかもしれない。
一人暮らしをするようになって何よりもうれしかったのは、いつトイレに入っても お風呂に入ってもいいということだった。
あの学生寮を思えば、今の部屋はたとえ狭くても私にとっては「お城」である。



学生寮の思い出 (1)

私は看護学校の3年間を学生寮で過ごした。
学生寮・・・、つまり女子寮。外部者立ち入り禁止。言うまでもなく、男子禁制で ある。
トイレも洗面所も風呂も共同というこの寮生活は、今にして思えば非常に貴重な経 験だった。

私が卒業した看護学校は全寮制で、たとえ通学可能でも寮に入らなければならなか った。
この全寮制という条件のもとに、両親は私が東京に行くことを認めた。
寮は一部屋3〜4人で、1〜3年生が同室になる。
友達同士ではなく、先輩・後輩が同じ部屋で生活するのだ。
不安で一杯だった入寮の日、しかし同室の先輩は暖かく迎えてくれた。
京都出身という私はウケが良かった。
京都の言葉しか知らなかった私は、自分がし ゃべるだけでどうしてこんなにウケるのか、その時はまだわからなかった。

翌日。6時に起きて、最初に2年生の先輩に教えられたことは「掃除」だった。
いや、正確には当番性の共用トイレ・洗面所掃除が6時起き、毎日の部屋掃除が6時30 分起きであった。
そしてこれは1年生の仕事で、2年生はこの日をもって掃除から解 放されるのだった。
食事の時間は朝7時〜7時30分、夜18時〜19時30分。
昼は隣接する病院内の食堂でとる。
入浴は19時〜20時30分、ただし学年毎に30分ずつ。
火・土・日曜日はなく、銭湯に通う。
この時間に遅れると食いっぱぐれ、お風呂に入り損ねた。
門限は22時、消灯(部屋以外の共用部分)も22時。門限は厳しかった。
恐ろしいこ とに、寮は自転車だと最後まで登りきれないような坂道の上にあった。
門限が迫る と、私たちはダッシュでその坂道を走らなければならなかった。

外泊は土曜日のみで、事前に学校に届け出て許可が必要だ。
テレビは食堂に1台、電話は着信専用一台・公衆電話一台、洗濯機は4台。
これらの寮生活すべてにおいて、先輩・後輩というヒエラルキーがそこに存在して いた。
こりゃ”体育会系”のノリじゃないか。そう思った。後に聞くと、友人たちは慣れ るまで辛くてよく泣いていたらしい。
しかし、中学・高校とバリバリの体育会系で 鍛えられた私は「あぁ、こんなもんか」、とわりとすんなり受け入れられた。
泣い ていた友人も次第に体育会的寮生活に慣れ、3年生になると皆そのヒエラルキーの上 にのさばっていた。

高校時代、クラブ活動よりも辛いものはないと思っていた。
それを乗り越えて成績 を残したことに満足していたし、そんな自分なら大変だと言われている看護婦にだ ってなれるんじゃないか、と考えていた。
看護婦になろうと思った動機は本当にそ の程度のものだった。
それがまったく甘い考えであったことに気づくには、もう少し時間が必要だった。
この頃の私はまだ親元を離れられたことがうれしく、新しい街と新しい生活・新し い言葉に慣れることに精一杯だった。



雑感

今から7年前の夏、親友がこの世を去った。享年23歳であった。
彼女は高校時代の友人で、大学を卒業して就職しこれから、という時に病に倒れた。
訃報を京都の友人から聞いたその日、休みだった私はすぐに帰省しまだ通夜の準備 で慌ただしい自宅に駆けつけた。
親族以外で自分の身近な人の死を体験したのはこれが初めてであった。
当時私は看護婦として2年目で、仕事ではすでに何人もの患者の死に立ち会ってきた 。
私はそのときの感情と今、目の前で無言で横たわっている彼女への感情は全く違 うものであることに気が付いた。

私の仕事は「看護婦」だ。
「看護婦」として接する中で患者と関係性を持ち、ケア の提供を行う。
白衣を着ている以上、本来の自分の感情で患者に接することは、ある意味危険であ る。
それは、患者に理解・共感しながら一方で客観的に患者のおかれている状態を分析 する必要があるからだ。
「患者の痛みを理解することは必要だが、患者と一緒に痛がっていてはいけない」 という言葉がこれをよく表現しているだろう。
患者が亡くなって悲しくないのか、と言われることがあるが、その時必要以上に感 情移入していると、無力感・喪失感が大きくなってしまい、バーンアウトに陥る危 険があるのだ。
病院という空間では患者は「患者」という役割の中で、看護婦は「看護婦」という 役割の中で関係性を形作る。
だから私達の悲しみはその関係の範囲に限られる。
しかし、肉親や身近な人の死を目にした時、我々はもう表情の消えたその顔の中に その人と関わった歴史や思い出を重ね合わせて見ているのだろう。
その決定的な違 いを、私は皮肉にも自らの実体験で知った。

親友の死に顔を見て、私は泣いた。
デキのいい彼女のことだ、希望通りの就職をしてきっとバリバリ仕事をこなすよう になっただろう。
趣味を楽しみ、友と遊び語らい、恋愛をし、結婚して・・・・。
彼女の遺志を知る由もなかったが、その時私はこれから自分が生きてく上で彼女の 分まで精一杯生きよう、と思った。
彼女がこれから享受するはずだった、人生の歓 び・苦しみをせめて残された私達が代わりに受けて立とう、と誓った。

7年が経った今、当時ほどの気負いはない。
時にはそんな誓いを忘れて日々の生活に 埋没している。
日々の仕事や私事に疲れ、将来を見失って気持ちが落ち込む時、彼 女は時々私の脳裡に現れる。
何も言ってはくれないけれど、無言で現れそして消え ていく。
そんな時、彼女は私の心の中に生きているのだと感じる。
いやむしろ元気でいた時 よりもしっかりと私の中に存在を形作っている。

看護婦とはなんだろう。生きるとは、命とは・・・。
生と死に直面する職業に就いていても、自分の体験をもってしても、答えはまだ闇 の中にある。


職業病

「むくみ」「肌荒れ」「早食い」。”3K”よりも恐ろしい私の3大職業病である 。

むくみ
私はもともと下半身デブの上にむくみやすいので、勤務後の脚はまるで「魔法使い サリー」 の主人公、サリーちゃんである。
おそらく血行も悪いのだろう、年をとったら下肢 静脈瘤になり そうな脚だ。
また、むくむと同時に非常に疲れるので帰宅してもすぐに眠ることが できない。
午前中に各HPにアクセスしている時、実はアグラをかいて疲れてむくんだ脚をさ すり、モミな がら書き込んでいるのだ(行儀悪くてすみません)。
最近は脚専用のマッサージ機 を買おうか どうか、悩んでいる。

肌荒れ
言うまでもなく、夜勤の代償である。
人間はやはり夜眠るようにできているようで、22時から2時までが「お肌のゴール デンタイ ム」らしいから、夜勤ばかりの私には致命的だ。
また、年を経るごとに夜勤明けの 疲れが 顔に肌に如実に現れるようになった。
とにかく、化粧のノリが悪い。夜勤明けで帰 る時は最 悪だ。
院内ではひどい顔をしていても「あぁ、夜勤だったのね。ご苦労様」と思っ てもらえる が、病院を一歩外に出たら「何、この人?朝からひどい顔して」と思われるのがオ チである。
私の友人は夜勤明けで出かけた時、窓に映った自分の顔を見て「誰?この人?」と 思って まった、と言う。

早食い
おそらく私だけでなく、看護婦という職業に就く人の多くは早食いであるに違いな い。
なぜか。早く食べないと食いっぱぐれるからである。
私が現在働いている深夜勤は、一勤務約12時間である。
その日の状況にもよるが、 「超」 大忙しの日はこの間飲食できず、トイレにも満足にいけない。休憩できても、ナー スコールが 多ければゴハンの最中にでも患者の排泄の介助をする。
夜間入院もあるし、患者は いつ亡く なるかわからない。
だから休憩時間といえども、何があっても対応できるようにゴ ハンは早く 食べておかなければならない。
赤ちゃんのオムツ替えの後カレーが食べられなかった、という話を聞くことがある が、赤ちゃ んのウンチごときで食欲が減退していたら看護婦はできない。
患者の排泄の介助を しても、 時には死後の処置をしても、5分後には平然とゴハンを食べることができれば一人 前の看護 婦と言えるだろう。

「顔と脚が綺麗なら、渡る世間に鬼はないのよ」と歌った曲があるのだが、全くそ のとおり だと思う。
私にとってはこの仕事を続ける限り、「渡る世間は鬼ばかり」である。


5月2日(土)

変わった患者(ヒト)たち・困った患者(ヒト)たち

ケース1
タカラジェンヌの一人が東京公演中に尿管結石のため、入院した。
尿管結石は疼痛(とうつう)発作がおさまれば全くケロッとしてしまう。
痛くなければかえって動 いていた方が石が移動して排石しやすい。
主治医は「きみ、踊ってるんだよね。その方がいいから 、ここから舞台に通いなさい」と言い、黄色く髪を染めた彼女は病院から東宝劇場に通って公演を 務めた。その後、ダンスの効果あって無事に排石したかどうかは不明である。

ケース2
ヤクザさんが手術目的で入院した。組の中でも上の方の人らしく、「カタギの人には手ぇ出しちゃ いけないから」と言い、至って腰の低い人だった。
手術は無事終了。
経過も順調。ある日、点滴の準備をしていると、「できればもう点滴やりたくな いんだよね。痕が残っちゃったら、シャブと間違えてサツに疑われちゃうからさ」と彼。
その後、私は大変なプレッシャーを感じて点滴の針を刺したのは言うまでもない。

ケース3
手術目的の30代・韓国人女性。50代くらいの日本人男性が一緒に付いてきた。
「知人です」と 男性。
入院時の問診に続いて手術の説明を行う。
術前には手術する部位を剃毛する。腹部の剃毛をするこ とを話すと、すかさず男性、「あ、彼女、毛は薄いですから」。
なんで彼女の腹の毛の生え具合を知ってるんじゃあ。薄くっても一応、毛を剃るんじゃあ。

ケース4
60代男性、若い女性を伴って入院。妻とは別居中なのに。じゃ、一緒に来たあなた、誰?
過去に精管結紮(せいかんけっさつ)の手術を受けている。つまり、子供ができないように通り道 を「縛った」のだ。今回はその結紮を解くためにきた、という。
しかし、「道」は再開通しても、「子」は造られているのだろうか、とひとしきり話題になった。 で、相手は?

ケース5
20代男性、急性虫垂炎(盲腸)で手術。
手術後のある朝の巡回で、手術したキズを点検する。
本人は妙にソワソワ、落ち着かない。
「きっ とお腹を見せるのがはずかしいのネ。お年頃だし。」と思っていたら、パンツの中が動いている。
・・。
やばい、今ここでそんなモンみたくないぞ!急いでパジャマを整え、布団をかける。
朝、下腹部を触わるって刺激が強かったのだろうか。それとも、自然の摂理か・・・?

ケース6
腸閉塞で入院・緊急手術の男性・40代。なんだか、うす汚いなぁ・・・。
「ご住所は?」
「東京駅。」
・・・・ぷーたろーさんかぁ・・・。それにしても東京駅で何食ってたんだ。
「センセー!手術の準備する前に、オフロですっ、オフロ!」
彼は手術を終え、元気になって福祉事務所からの紹介で職を得、退院していった。
まさしく「怪我 の功名」であった。

ケース7
病棟で急変(患者の容体が急に悪くなって、最悪の場合亡くなったりすること)が起こる時、なぜ か必ず大騒ぎして私たちの手を焼かせた痴呆のある患者がいた。
私たちは密かに彼のことを「ナマズじいさん」と呼んだ。

ケース8
某警察署に拘留中の20代男性が急性虫垂炎で緊急手術のために入院した。
容疑は窃盗罪らしいが、要注意人物だとのことで院内でも手錠は外さず、刑事さんも24時間体勢 で監視するという。
手術では麻酔をかけるというのに彼は手錠をかけたまま、刑事さん同伴で手術室に消えていった。
ホンモノの手錠を、初めて見た。触わらせて、とは言えなかった。

ケース9
50代のその男性は、ロマンスグレーの穏やかな雰囲気の人で、ちょっと好みの患者だった。
ある日、午後の検温のため病室に入るとすでに同僚と思われる人が来ている。
「面会時間外じゃな いかぁ・・」と思いつつ、「お話し中すみません」と体温を測り、脈をとる。
その時、彼は面会者 に向かって
「みてみてー、看護婦さんに手を握ってもらってるんだよ♪」と言ったのだった。
その 瞬間に彼への好印象は、ガラガラと音を立てて崩れていった。

病院はいろんなヒトが集うところである。



天使じゃないってば!その1


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